被造物の生命の豊かさ

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十三匹の犬

『十三匹の犬』

著者
加藤 幸子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103452102
発売日
2016/03/28
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

被造物の生命の豊かさ

[レビュアー] 富岡幸一郎(文芸評論家)

 猫派と犬派といわれるように、人間にとって猫と犬という動物は、一種特別な親しみのなかにある。小説家にとっても猫や犬はしばしば作品の重要なモメントになっている。漱石の『吾輩は猫である』はもちろん著名だが、漱石自身は犬派であったらしい。萩原朔太郎は詩集『青猫』を書いているが、これも犬派。猫派の代表格は大佛次郎である。犬派の代表格はというといろいろ名前が挙がりそうだが、川端康成ではないか。「たいていの犬の美しさは、犬が神経質であるといふ点によるところが多い。けれども、人間の神経質と動物の神経質とはちがふのである。動物の神経質といふものは、かがやく明るさの美しさなのである」(「わが犬の記」)と判ったようなよく判らないことを言っている。ちなみに『禽獣』執筆当時は家中犬だらけであったという。

 本書の作者もさしずめ犬派ということになりそうだが、十二匹目の飼い犬はこんな証言を残している。

《“ユーコさん”は自分の同属たるニンゲンよりもほかの動物のほうが好きなのかも。ひまさえあれば、にゃんにゃんたちと遊んでいる》

 もちろんこれは「にゃんとも犬」という章で登場する犬の偏見かも知れないが、十三匹の犬たちが語る飼い主一家の歴史を、かくも豊かな生命の色彩にみちた物語として語る作家が犬好きでないわけはないだろう。

 話は“ユーコさん”が赤ん坊だったときに一家に飼われた犬からはじまる。場所は戦前の北海道であり、「赤」と呼ばれたその犬は知人のアイヌから譲りうけたものである。初めは白っぽいむく毛が目立ったが、やがて赤褐色の固い毛が生えてきて番犬にふさわしい勇猛さを発揮する。

“ユーコさん”が縁側を這いまわり地面に転落しそうになると「大声でママが気づくまで吠えつづけ」て助けたりするが、その主(あるじ)にたいする忠誠が仇となり、吹雪のなかで突進して来るオート三輪を「黒い凶暴な怪物」と思い飛びかかり事故死してしまう。

 作品は各章とも犬の視点で描かれ、最後に飼い主ファミリーの短い説明が入るかたちになっているが、特筆すべきは各々の犬たちのまさに「神経質」なほど繊細にして鮮烈な感覚によって、戦前から大陸(北京)での敗戦と引揚げ後の占領期、そして戦後から平成の今日に至るまでの一家の歴史が描き出されていることである。

 雪の大地を主人と共に歩く「赤」の感覚には、オート三輪は異様な臭気を放つ「動く大岩」の怪物と映じるのだが、それは次のような乗物の感覚から著しくへだたっているからである。

《臭跡からすると、その道の主な通行者は、これまでにも何度か出会ったあの大型の四足動物にちがいなかった。この動物はカポカポと規則正しい足音をたてながら、後方に飼主らしいニンゲンと丸太を積み重ねた荷台を引きずっていく。ゆうに私十匹分ぐらいの力持ちなのに、性質はおとなしく“主”と私がサンポの途中で出会っても歩調を変えたりはしない》

「ニンゲン」の世界を無限に相対化させる、このような犬による“描写”こそ、この小説の文体の真骨頂であり、それは動物の視点による人間社会への風刺や諧謔ではなく、むしろニンゲンが当り前のこととして感受しているものごとを、別なかたちの現象として描き出すのである。飼い主と犬とが、同じ地平に立ち互いに共感しているからこそ、そこに生ずる微妙な差異が、不思議な光と熱を帯びて現われ出してくるのだ。

“ユーコさん”一家はその後中国で敗戦をむかえ、引き揚げ後に戦後の混乱期を過ごし、その生活上の苦難や世相も、犬たちとの出会いのなかに点綴される。六年間住んだ中国から帰って飼った「ぶち」は、敗戦で飼主を見失った犬であるが、その犬には空襲体験もあった。

《僕が見たのは思いもよらない風景だった。かつて“家”と呼ばれていた大きな容器は、板片の山に変わっていた。ところどころからブスブスと白煙が立っている。あの「バリバリドンドン」の結果にちがいない。僕の犬小屋もどこに行ってしまったのか、影も形もなかった》

「ぶち」はやがて敗戦後のニンゲンの世界にいくつもの「新しい現象」を目撃する。

《野原の外側の道路上に、四角ばってがっちりした車が砂埃をあげて止まるのだ。するとあちこちの家々から、跳ね虫みたいに子供が飛びだしてくる。僕は一瞬はっとする。(中略)子供たちは四角ばった車を取りかこみ、四方八方から腕を伸ばして揺らせた。人間も“お手”をするのだ。車上の男たちは皆よく似ていた。そろいの服を着て、のっぽで、帽子を斜めにかぶっている。陽気にゲラゲラ笑いながら、伸ばされた手に次々と何かを渡している。届かない後方の子供たちには、ボール遊びのように投げ、そのたびに歓声が上がった。「サンキュー、サンキュー」というコトバを僕は覚えてしまった》

 野良犬の感覚によって、ニンゲン世界の現象はまた別の相貌をもって、描かれる。そこには人間的なさまざまな感情が濾過されているがゆえに、物事の本質が露呈するような側面がある。

 この犬の物語の連作が、戦前の北海道から、戦中・戦後、そして平成の東京の時空間を貫いているのは、その意味で十三匹の犬の世界の受けとめ方によるユニークな歴史絵巻になっているのである。

 十三匹目は柴犬で、名前は「シバ」。主の“ユーコさん”の仕事の貴重な同伴者として、「今」の時を共有している。シバの犬としての来歴は、幼い頃から代々の犬たちと親しんできた“ユーコさん”にとって、自分のニンゲンとしての来歴とも重ねられる。

《私はシバから過去の時間を奪いたいのではなくて、それをのり越えて今を生きてもらいたかった。私自身のこれまでの時の流れもそうであったから》

 一匹の犬の一生が、そのとき家族の歴史を照らし出す温かく柔らかな生命の讃歌となる。ニンゲンだけでないこの世界の、神の創造した被造物の「時の流れ」が、そこに静かに浮かびあがってくる。

新潮社 新潮
2016年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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