一元論的視点への批判

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日本文学源流史

『日本文学源流史』

著者
藤井, 貞和, 1942-
出版社
青土社
ISBN
9784791769100
価格
4,620円(税込)

書籍情報:openBD

一元論的視点への批判

[レビュアー] 福嶋亮大

 従来、多くの日本文化論が取り組んできたのは次の問いである。近世までは中国の、近代以降は西洋の影響を強く受けたにもかかわらず、なぜ日本文化は完全に中国化/西洋化することがなかったのか? そこには、外来の強力な文明を懐柔し、馴致してしまう鵺(ぬえ)のようなシステムが作動していたのではないか?――こうして、有力な学者たちは日本文化の初期条件の探求に導かれ、日本文学の「発生」(折口信夫)や歴史意識の「古層」(丸山眞男)という類の語彙を好んで採用することにもなった。

 しかし、本書はこの種の「起源」を求める問いの立て方から身をそらせようとする。著者の藤井貞和は折口と丸山に違和感を表明しつつ、日本文学において「繰り返し発生する動態」を捉えようとした。エドワード・サイードの用語を転用して言えば、神学的な「起源」(origin)はイデオロギー的虚飾にすぎず、ただ前提条件を微妙に変えながら何度もリスタートする運動、すなわち世俗的な「始まり」(beginning)の連鎖があるだけだ――、これが藤井の立場だと言っても恐らく間違いではないだろう。本書は日本文学のさまざまな「始まり」の局面をアイヌ文学・琉球文学も含めて探査しながら、文学上の出来事のネットワークを再構成していく。

 とはいえ、縄文時代から二〇世紀まで、あるいは神話・物語から詩までを網羅しようとする本書の議論が、いささか錯綜していることも否めない。「思いつきが並ぶ」「素朴なノートの集積」と著者自身が断っているように、本書では議論の体系的構築は最初から放棄され、思索の断片が並べられている。だが、せっかく興味深いアイディアが多々含まれているのだから、その一つ一つの断片をもっとのびやかに展開し、相互に結合させ、何らかの結論に到達して欲しかったというのが私の偽らざる感想である。

 一例を挙げれば、一七世紀の契沖の文献学を国学の狭隘さを超える「文芸復興」の一環として捉えるのは、私も大いに共感するし(実際、契沖の和漢の教養は驚異的なレヴェルに達している)、その前史として木下長嘯子や下河辺長流を再評価するのもいいとしても、この「日本ルネッサンス」の系譜にいかなる普遍的な価値があり、それがどう歴史的に展開(挫折?)したのか、そもそもなぜ文献学なのかという問いは依然としてあいまいなままである。さらに、藤井のようにそこに「世界同時性」を想定するならば、やはり同時期の清の高度な考証学=文献学との多面的な比較が欠かせないだろう。契沖という「奇蹟」は「自由な時代」ゆえに可能であったというのでは物足りない。

 もっとも、本書にも一貫した立場がないわけではない。それは日本文学を一元論的な視点で割り切ることへの批判である。藤井は谷川健一を借りて、柳田國男の「稲作一元論」を批判するとともに、軍事と結びついた金属文化のインパクトを強調する(ちなみに、しばしば「不具者」としての形象をまとった鍛冶職の者たちは、拝火教的な日神/雷神崇拝を伝承しており、それは金太郎の説話とも無関係ではないと思われる。高崎正秀『金太郎誕生譚』参照。金/火/不具者の物語である三島由紀夫の『金閣寺』にその遠い残響を聴くことも不可能ではない)。あるいは、六世紀における仏教の流入が初期神道=神道イズムを刺激し「穢れ」の問題を前景化したことにも注意が払われる。

 この種の文化間の軋み/相互作用は、本書では広く「翻訳」の問題として扱われた。藤井は翻訳のプロブレマティックな要素が凝縮されたジャンルとして、詩をさまざまな角度から論じている。むろん、翻訳と言っても別に本を一冊丸ごと移入するだけではなく、外来の表現をあたかも通りすがりにひょいと換骨奪胎したかのようなケースもあり得る。例えば、藤井が潁原退蔵の研究を引きながら、即興的な「自由詩の前型」として言及する与謝蕪村の「春風馬堤曲」は、まさにその種の翻訳の「戯れ」を体現するものではなかったか?

 と同時に、藤井は翻訳のもたらす文化的な摩擦にも注意を払っている。とりわけ、萩原朔太郎のローカリズムと西脇順三郎のアヴァンギャルドの相克――むろん、この対そのものが詩の翻訳のプロセスのなかで構成されている――については、興味深い論点が提出されている。さらに、西脇の台頭した関東大震災後の文壇では、折口信夫が短歌の命数が尽きつつあるという立場から「歌の円寂する時」を発表したのをはじめ、新旧の詩/歌の表現様式がそれぞれ自己反省/自己改革を始めていた。西脇や折口が日本語の詩的表現そのものの条件を問題にしたことは、アイヌや琉球の歌謡を積極的に取り上げる本書の戦略とも響き合っている。

 とはいえ、西脇のアヴァンギャルド/シュルレアリスムにしても、今や一時の徒花(あだばな)のように扱われているのではないか? その結果として、「近代という眺め」を創り出すための「認識系」の拡大の意志は文学から失われているのではないか? 「前衛性を切り捨てることにおいて現代詩と現代短歌とが同一線上にあるという、それでわれわれはよかったのだろうか」。翻訳の生み出したノイズが失われ、攻撃的な主義・思潮が出現しなくなったとき、日本語の詩はひとまず安定したアイデンティティを手に入れた。だが、それでよかったのかと藤井は問うている。これは狭義の詩を超えた重要な問題提起と言うべきだろう。

 ともあれ、私は本書それ自体を一種の「文芸復興」の書物として、あるいは伝統を参照しつつそれを広義の翻訳によって切り崩すモダニズムの系譜を(考古学的な時間軸まで導入しながら)再構成する書物として読んだ。本書に散らばったさまざまなアイディアを、読者は自分なりに発展させることが許されるだろう。ただ、最後に一点だけ自己批判を込めて言えば、五百頁近い本書も含めて、評論がいたずらに大著化しがちな最近の傾向は決して健全なものではない。例えば、初期の小林秀雄(本書でも言及される)のエッセイズムは、今改めて思い出されるべきではないか? 言うまでもなく、小林も優れた詩人たちと並走した批評家であった。

新潮社 新潮
2016年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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