『マチネの終わりに』 平野啓一郎著

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マチネの終わりに

『マチネの終わりに』

著者
平野 啓一郎 [著]
出版社
毎日新聞出版
ISBN
9784620108193
発売日
2016/04/09
価格
2,109円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『マチネの終わりに』 平野啓一郎著

[レビュアー] 安藤宏(国文学者・東京大教授)

更新、上書きする恋愛

 瀟洒(しょうしゃ)で、すがすがしい恋愛小説だ。

 世界的なギタリストの男と、一線で活躍する国際ジャーナリストの女。二人は深く愛し合っているが、運命のいたずらで行き違い、異なる相手と結婚してしまう。しかし行き違いは単なる偶然ではない。すでに自分の世界を持ち、社会的な分別も弁(わきま)えてしまった大人の男女が、それぞれ相手の世界に敬意を抱きつつ、なおかつ人生を共に歩むことは可能なのか――そこには人生設計に悩む「アラフォー」の、すぐれて今日的な課題が潜んでいるわけである。

 二十代の恋愛と四十代の恋愛のもっとも大きな違いは「時間」に対する観念だろう。すべて決着がついてしまった、と思っても、智慧(ちえ)と内省がひそかに働き続けるかぎり、人生には第二幕と三幕が用意されている。取り返しのつかないように見える「過去」も、実は「現在」から更新し、上書きすることが可能なのであって、恋愛とは互いに歳月をかけて塗り替えていく一幅の絵画にほかならない。本作の根底にあるこうした思想は、実は時間の射程が伸びていく現代の人生の縮図そのものでもある。

 バグダッド、パリ、ニューヨークを舞台に、ユーゴの崩壊、中東情勢、リーマンショックなどの世相が織り込まれ、そこに洗練された芸術観、人生観が開陳されていく本作は、知的で働きざかりの読者のプライドとナルシシズムをくすぐることだろう。それはひとえに小説が精巧に作り込まれている証(あかし)なのでもあって、たとえば全編の文末を全知の視点である「~た。」で統括するには、かなりの力ワザが必要なのだ。この作者固有の“作り込み感”には心地のよいあざとさがあって、「小説はこれでよいのだ」と思わせる不思議な魅力が漂っている。

 結末の再会の場面は感動的で美しい。差し挟まれる数々のクラシックギターの名曲について、ある読書委員が選曲のセンスの良さを高く評価していたことを申し添えておきたい。

 ◇ひらの・けいいちろう=1975年、愛知県生まれ。「日蝕」で芥川賞。著書に『ドーン』『透明な迷宮』など。

 毎日新聞出版 1700円

読売新聞
2016年7月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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