『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』
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対象に「接近し過ぎた」一冊
[レビュアー] 堂場瞬一(作家)
米NBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンについて書かれたものは無数にある。その中で私が推すのは、ノンフィクション界の巨匠・デイヴィッド・ハルバースタムによる『ジョーダン』と、コラムニストとして一時代を築いたボブ・グリーンによる『マイケル・ジョーダン物語』。どちらも稀代の選手の実像を描き出そうとしているのだが、その手法は正反対だ。
ハルバースタムは、この本を書くにあたって、いつもと同じ取材方法を採った。すなわち、徹底した周辺取材である。ところが驚くべきことに、ジョーダン本人への取材には成功していない。
対してグリーンは、ジョーダン本人に密着してこの本を書き上げた。グリーン自身も登場人物になり、著者本人の目で見た生のジョーダンの姿が浮き彫りにされている。
どちらが優れているというわけではない。ノンフィクションには主に二つの手法があるというだけだ。主題を客観的に、ある意味突き放して見るか、あるいは自分が主題と一体化するほどの密着取材をするか。
本書はこのどちらでもない――いや、こういう二分の枠を超えた。「自伝」と謳っているわけではないのに、語り口は一人称の「私」。すなわち、著者が溝口和洋本人になり切って書いていることになる。
その結果と言うべきかどうか――本書は、私がこれまで経験したことのない読み味を持った一冊に仕上がった。
またアメリカの話で恐縮だが、ベーブ・ルースの年間ホームラン記録を破ったロジャー・マリスという選手がいた。そのシーズン(一九六一年)終了後、マリスの一年を振り返った本(書いたのは新聞記者)が出版されたのだが、この内容が異例だったそうだ。実物を読んだことはないのだが、数字を駆使して、ホームラン一本一本を丹念に記載しただけなのだという(この情報もハルバースタムの著書から)。プライベートに触れられるのを嫌がったマリスに配慮したためだそうだが、はてさて、どんなものだったのか。
本書を読んでいるうちに、私はマリスの本がこんな感じだったのではないかと思い始めた。何しろ前半の多くが、溝口の独自のウェイトトレーニングを紹介する内容なのである。それこそ読んでいて気持ちが悪くなるぐらいのトレーニング量だ。限界を超えて吐く、という感覚を久々に思い出した。
そして後半に、世界記録に迫った栄光の時代が描かれるのだが、そこから溝口という選手の人間像をくっきりと思い描くのは難しい。サブタイトルにある「無頼派アスリート」という言葉を証明するようなエピソードも紹介されるものの、結構さらりと流されている。
日本のノンフィクション、特にスポーツノンフィクションは、記録と同時に「人柄」を紹介することを重視する。記録と人間性が一体になって迫ってくるような内容になればベスト、ということだ。
だがこの本で、著者は敢えて溝口の「人間性」の部分を抑えて描いているのではないだろうか。もちろん、独白として挿入される「毒舌」は、溝口というアスリートの独自性を浮かび上がらせてはいるのだが、それでも彼がどういう人間なのか、今一つ想像しにくい。
もしかしたら著者は、溝口に接近し過ぎたのかもしれない。本人になり切っていればこそ、感情の説明ができない――自分の感情をきちんと説明するのは難しいものだから。だがこういう状況で、がぜん溝口というアスリートに対する興味が湧いてきた。もしかしたらこれも、著者の企みなのか? この本は「導入部」に過ぎないのではないか?
願わくば、著者が溝口という選手をどう考えているのか、新たな機会に知りたいと思う。その際は、著者自身の一人称による、「感情的」な話を読んでみたい。