オクタヴィアンはジェラール・フィリップ

レビュー

5
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新・目白雑録

『新・目白雑録』

著者
金井 美恵子 [著]
出版社
平凡社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784582837254
発売日
2016/04/18
価格
2,052円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

オクタヴィアンはジェラール・フィリップ

[レビュアー] 鈴木了二

 ところで金井美恵子氏の地形や都市や建築把握の的確さは、小説のなかで縦横に発揮されている。たとえば『恋愛太平記』のなかに、結婚5年後の美由紀が、住んでいるアパートの自分の部屋を、どうした弾みか急に親しくなった向かい側のマンションに住む林という男の部屋から望むというショットがある。ついさっきまで自分が属していた空間を、外部から、まるで建築模型の内部を覘き込むように家具や光線まで克明に描いているのだが、さらにそのとき美由紀の頭には子供のころの隠れん坊の記憶が蘇り、密かに隠れた隣家の床の間の丸い障子越しに、遠くに見える誰もいない自分の部屋を外から覗いたときの光景を林に話す。時間も場所も内部もまったく異なるのに自分の部屋のふたつのショットは、それぞれ同じ質感と同じ重さと同じ光線が感じられるように記述されることによって、対等のバランスで釣り合っているように思われる。異質でありながら「同型」であり「合同」であること。そこには少しのズレも緩みもない。映画でも不可能な、言葉だからこそできる、時空を越えて同時にぴたりと重なるダブルショットである。そしてこのどこまでもピントの合った空間把握の力を、現代の時評に向かって駆使したものが『新・目白雑録』ではないだろうか。

 読み終わったとき即座に思ったのは、いちおうは建築を自分の仕事としてきた私の周りで起きている現在の事態が、文学者の金井美恵子氏がこの2年半ほどにわたって自分の周りで起きたことを書いた世界と驚くほど合致しているということだ。それどころか金井氏がここに書き付けていたことが、いまやわれわれの目の前で、日本を代表する一流の建築家と称される人間たちによって生々しく実演されるのを目撃する羽目になった。

 この書物はまるで、遠くの海を潜行中の潜水艦からこちらに向かって、世界の精密な位置情報を打電しているかのように感じられる。ところでちょっと考えてみると金井氏の「言葉」はどれも、誰かの発言であったり、メディアのキャッチコピーであったり、時流で微妙に変化する会話の語尾であったりする。要するに全部がレディーメイドであり、不注意にそのまま並べたなら時代遅れの「これポップアート?」という程度のものにしかならないパーツにすぎない。金井氏はそれらを、まるで食材ででもあるかのように軽々と取り上げて、台所の調理器を使いこなすようにして言説(=ジャンク=物語)をバラバラにし、そこから言葉を掬い取って洗い流し、捨てるのではなく再利用、というか逆利用してそれらの臭みや脂っ気や、今で言う「ベタさ」や「エモさ」を一挙に揮発させてしまうのである。立て続けにこみあげる笑いが言葉に浮力を与え、読むものにゆっくりとくつろげるだけの余裕を与えてくれるのだが、しかしその笑いはもちろん可笑しげな「物語」を目的としているのではない。もしも今後、長い年月が経ち、いまは生々しい「意味(=物語)」を持つ言葉の背景がすっかり消え去ったとしても、この書物は言葉と言葉とのバランスだけで自立しているに違いない。この本もまた金井氏が、小説であれエッセイであれいつも仕掛けるいままでに誰もやったことのない言葉による実験の成果なのである。

 小さな断片のように思わせる25項目は、実は大きな「差別」「詐欺」「メディア」「発注」の4つのブロックに分かれており、そこで風通しのよくなった視線で、金井氏が本の最後に緊急の手紙のように差し挟んだ「まだ、とても書き足りない」で言及しかかっていながら誌面の尽きた2016年の「新国立競技場」をめぐる建築家たちの発言を見直すとどうなるだろうか。出てきた発言のほとんどは「国家か社会か」「自然か伝統か」「ファシズムかネオリベラリズムか」「市民か天皇か」といった大仰で派手な言説ばかりで、もちろんそのほとんどが「ピント外れ」ということになるだろう。というのも、金井氏が注目するのは「新国立競技場」ではなくてむしろ「聖火台」のほうなのだ。「なぜ、選考の席でも、また新デザインが発表された時も、そして今までの何ヶ月の間も、誰もそのことを言い出さなかったのかが不思議です」と指摘したあと「それを〈オリンピック・トーチ〉ではなく〈五輪〉の〈聖火〉と呼ぶというか書く習慣とあいまって、どこか宗教的な(ということは、疑いというものをあまり持たない)イメージが感じられます」と金井氏は続ける。とすれば、この2016年の快晴の正月に富士山を望んで、それまでは「説明できるロジックが見つかるまでコメントは差し控えるべき」(磯崎新『偶有性操縦法』2016年3月)と思っていた磯崎氏は東京を周辺から眺めてみたいと考えて思索の旅に向かい、遂に「空地になっている神宮外苑を「原ッパ」として残せ!」(同上)と、まだどこかに岡本太郎の「芸術は爆発だ!」の残響を感じさせる口調で書きもする。「旧国立競技場」の解体は今から1年前の2015年の3月にはじまりスタンドのある外壁が消えたのは5月で、富士山は見なかったものの解体で現れた空の広さのあまりの気持ちよさに、私はカメラを持って数日間通ったくらいであったから、早さが勝負の「メディア」に意識的に関連づけてきた磯崎氏としては少し反応が遅過ぎるとはいえ、そもそも最初からオリンピックがいらなかった私の考えと表面上では同じことになったが、しかし磯崎氏の「皇居前」であれ「神宮外苑」であれどこかの「広場」であれ、それが「都市の街頭を練り歩く」ことがイメージされる「祝祭」である限り「空地」の空地性は失なわれ、そこには金井氏の指摘する「宗教」臭さは付き纏い、そして「発注」の問題は相変わらず残ったままだ。「画家は絵を描くことが心底好きで絵を描くためには、主題などは実のところ、何でもいいという素直な気持が、芸術家的と信じられていたかのようだ。(中略)『絵画』などというものは、政治的状況のみで価値が決るものだ、と舌足らずに言いたいらしい。しかし、レンブラントに絵を発注したのは、国家ではなく、市民ではなかったか」

 そして、このなかの主語である「画家」を「建築家」に置き換えて読めば、「素直な」対応振りが時には思わず「ひとかど」と言うより「オレさま」に見えてしまう今の建築家たちに欠けているものが分かるだろう。それは金井美恵子氏の言葉の回転運動の軸となっているごく常識的な「庶民感覚(コモンセンス)」ではなかろうか。とはいえその庶民は醤油味ではなくて「ばらの騎士」のオクタヴィアンは、マレーネ・ディートリッヒの言葉を信頼してジェラール・フィリップが相応しいと直感したルビッチのものであるが。

新潮社 新潮
2016年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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