新たな創世記、それとも滅びてしまった人類への哀悼?

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大きな鳥にさらわれないよう

『大きな鳥にさらわれないよう』

著者
川上, 弘美, 1958-
出版社
講談社
ISBN
9784062199650
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

新たな創世記、それとも滅びてしまった人類への哀悼?

[レビュアー] 沼野充義(スラヴ文学者)

「形見」から、「踊る子供」「大きな鳥にさらわれないよう」「奇跡」「愛」などを経て「なぜなの、あたしのかみさま」で結ばれるまで、それぞれが独立した短編としても読めそうな魅力的なタイトルを持つ、全部で一四の章からなる長編である。

 冒頭の「形見」は、じつは、最初、岸本佐知子編『変愛小説集 日本作家編』の一編として『群像』二〇一四年二月号に掲載された(同年九月、講談社より単行本化)。そのとき読んで強い印象を受けると同時に、謎めいた不思議な作品だとも思ったことを覚えている。小説は「今日は湯浴みにゆきましょう」という言葉で始まり、「行子さん」「千明さん」といった、「さん付け」の日本名を持つ女性たちの丁寧で言葉数控えめな会話が続く。語り口も、「うすもの」をはおって「湯浴み」に行くといった、和風に洗練された言葉遣いだ。いかにも川上弘美らしい一種のそこはかとない気品が漂っているので、日本を舞台とした現代小説かと一瞬思わされる。しかし、それは錯覚で、読み進めると、この舞台ははるかな未来であって、この世界では食料も、子供たちも、「工場」で作られているということが分かる。かつては「国」という地域のまとまりがあって、「日本」と呼ばれていたのだ、ともいう。それはもはや、古文書を探らなければ分からない、大昔の話だ。

 そこに至るまでの間に人類に何があったのか。工場で生産されているらしい、様々な動物に由来する子供たちとはいったい何なのか。ここでははっきりとは説明されない。そういったSF的設定が一方にあるのに、他方ではいつの時代、どんな設定であっても変わらない、登場人物たちの心理や言葉に注がれる作家の優しく繊細なまなざしがある。その間の齟齬が、一種謎めいた印象をもたらしたのだろう。

 しかし、「形見」が発表されたとき、それが今のような形の長編に発展するとは、まったく予想できなかった。今回最後まで通読して初めて、冒頭の「形見」の状況に至った人類の歴史の全体像が見えてきて、驚愕させられたのである。そこはかとない優しさが漂っているようで、じつはこれは恐ろしく衝撃的なビジョンを秘めた強烈な作品でもある。

 仕掛けをあまり簡単に説明してしまうと、いわゆる「ネタバレ」になってしまうので、この先の論評には慎重を要するのだが、最初のうちは、読み進めれば進めるほど、状況がよく分かってくるというよりは、謎が深まっていく感じだ。状況を完全には説明しないまま、謎の快い「負荷」を読者にかけながら、物語の仕組みが起動していく。二番目の章「水仙」は、いきなり「今日、私が来た」という、これまた不可解なセンテンスで始まる。「私」のところに、「私が来た」というのだから。極限までシンプルな構文だが、小説史上、このような文章はかつて誰も思いつかなかったのではないだろうか。つまり、この小説の世界では、「私」という存在は一人ではなく、三人、いや十人いてもおかしくない。そのうえ「母」もどうやら複数いるらしく、しかもそれは「つくられた人工物」だと言う。「母たち」の中には「大きな母」と呼ばれる特別な存在もいる。そして、「母たち」に育てられた「私」たちは「見守り」と呼ばれる特別な任務を負っている――それが何を意味するのかは分からないが、「注意深く観察すること。結論はすぐに出さないこと。けれど、どんな細かなこともおろそかにせずに記憶にとどめておくこと」がその仕事だという。

 私はなぜ複数いるのか。何のための「見守り」なのか。「母たち」とは一体何なのか。すぐには解き明かされない。解き明かされないまま、謎が物語の牽引力となり、人類のおそらく五千年以上の衰亡の歴史が語られていく。その意味ではおそろしく壮大な規模のイマジネーションを必要とするSF的未来史ではあるが、個別の章で焦点が当てられるのはあくまでも個々の人物の生の(それを「生」と呼んでよければだが)営みと心の動き(それを「心」と呼べるのならば)であり、その意味では極限まで繊細な純文学作品でもある。巨大なスパンを持つその両極の間の緊張に耐えられる作家はめったにいない。

 結局何が分かってくるのかというと――やはり、少しだけ、説明をしておこう。「ネタバレ」によって読書欲が減退するようなタイプの小説ではないと信ずるからだ。はるかな未来、人類は衰退の道を辿り、人口は減り、多くの国家も滅びていった。そこに現れたイアンとヤコブという人物が、人類を破滅から救うための計画を立てる。人間集団を地域別に分断し、地域ごとに「見守り」を配置し、隔離地域ごとの集団的遺伝子が変異し、進化していく可能性のある人間が生まれることを期待する、というものだ。そして、その背後にあって、この計画を支えてきたのが「母たち」である。科学技術が飛躍的に発展した遠い未来では、人工知能がいつしか人間による制御を超えた存在となって自己複製を始めるようになった。そしてこれまた人工知能によって開発されたクローン発生の技術と、人工知能の複製の技術が結びつき、「母たち」が誕生したのである。この「母たち」は初期は人間とまったく同じ形だったのだが、進化の結果、じつは「妙なもの」に変形してしまったという(この衝撃的な事実は最後のほうでようやく明かされる)。SF的未来には、その他、様々な突然変異や進化の結果生まれた「異形」の者たちも登場する――人の心を「走査」できる者、手を使わないでものを移動させられる者、未来を予測できる者、目が三つある者……。

 その中には、植物のように「合成代謝」ができる、緑色がかった肌の色をした新種の人間もいる。彼は「Interview」という章で、こんなことを言って、話し相手に別れを告げる。

「ああ、もう行くんだな。うん、楽しかったよ。またな。またいつか、あんたの話を、もっと聞かせてくれよ。おれはまたしばらく、あの巨大な木の上でじっとしてるつもりだから、そうだな、百年後か、二百年後くらいに、また会えるといいな。それまで、達者でな」

 このゆったりとした時間の感覚がなんとも言えずいい。それは、何百年、何千年という時間の流れを見据えながら、決してせかせかしないこの小説の時間感覚そのものでもある。そして最後に生き残った人間の手によって、動物の細胞からクローン人間が発生させられ、その「にせの人間」たちによって町が築かれ、静かに時が流れていくことになる。これは新たな物語を生み出すための創世記だろうか? それとも滅びてしまった人類に対する、祈りにも似た痛ましい哀悼だろうか?

新潮社 新潮
2016年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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