人が出逢い、時が出逢う

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マチネの終わりに

『マチネの終わりに』

著者
平野 啓一郎 [著]
出版社
毎日新聞出版
ISBN
9784620108193
発売日
2016/04/09
価格
2,148円(税込)

人が出逢い、時が出逢う

[レビュアー] 川村文重

 人生という舞台において、ある時期に繰り広げられるのが、白昼の夢幻劇のように儚く、儚いからこそ忘れえぬ美しい交感の物語であったならば、その後には何が残るだろうか。その追憶に、当人はいかに囚われ続けてゆくだろうか。そして、そこから何が始まるだろうか。

 平野啓一郎氏の新刊では、そのタイトルが示しているように、クラシック・ギタリスト蒔野聡史と国際ジャーナリスト小峰洋子との恋愛物語が文字通り、作品中に描かれた二つの昼間公演(マチネ)の後に、劇的に大きく動きだす。その一方で、このタイトルが仄めかしてもいるように、蒔野と洋子の出逢いや、おのおのが遭遇する衝撃的事件といった非日常の後に続く、日常の、成熟がなせる諦念をもってしか受け止めることのできないような苦い現実も描かれる。いずれにせよ、このタイトルは、「マチネ」のような特別な時間と、祭りの後としての事後的時間の対比をめぐって、読者を徒然なる想いに誘うだろう。

 たしかに、作品全体を貫くテーマは、蒔野と洋子の愛と言おうか、両者の間に作用する美しい親和力である。ふたりは同じエートスを持った精神の双生児であった。洋子が派遣先のイラクで知り合ったジャリーラのフランス亡命をふたりして支える一夜を過ごすことで、彼らの親和力は揺るぎないものとなる。だが、蒔野のマネージャーであり、彼らと異質なエートスの持ち主である三谷が介入することで、ふたりの間には突発的に斥力が働いてしまう。ちなみに後者の、第三者の関与にもとづく異変は、既読感のある展開ではある。

 しかし、物語に付随して描かれる人物の造形や細部のエピソードを通して、語り手が過去を捉え直す可能性に執拗に言及する点に着目すると、過去の可塑性とでも言うべきテーマが、それこそ蒔野の卓抜な演奏のように、「細部が全体を活気づけ、また全体が細部に於いて生き生きと精彩を放っ」た一貫したモチーフとして、作品を組織していることがわかる。

 それは物語の端緒でもあった。蒔野と洋子が出逢った夜、蒔野が「未来は常に過去を変えてる」と未来と過去の関係を逆説的に語る時、ふたりの間に共感が生まれ、それが愛の芽生えを予感させるものとなるからである。ここでいう「過去」とは、客観的事実としての過去の出来事のことではなく、認識する主体によって捉えられた過去の記憶を指す。事あるごとに蘇ってくる過去の記憶というものは、常に凝固した不変不動のものではない。未来の出来事によって、光が当たっていなかったところに光が照射され、さらに光源の数が増えることで、過去は複雑な多面体として、新たな意味を帯びて生まれ変わりうるのだ。

 ただしそれは、新事実の発覚によって、隠されていたことが陽の目を見、事の次第が単純明快になるというようなことではない。洋子とクロアチア人映画監督である父親との関係や、彼女の母親が生まれ故郷の長崎に抱く屈折した思慕への共感をめぐっては、過去のあぶり出しが和解と同時に痛みを伴って、過去そのものに複雑な襞を与えることになるからである。そして、それが時に人に救いをもたらしもする。

 ところで、この逆行する時間のベクトルを語る蒔野の念頭にあるのが、フーガの楽曲形式におけるモチーフの《追覆》であったことを、ここで指摘しておくべきであろう。時間性をめぐるテーマは、蒔野が奏でることで彼と洋子を結びつけ、作品に奥行を与えている音楽というものが、時間の経過のなかで表現されるという意味で、時間芸術であることと無縁ではあるまい。本作で音楽は単なる小道具ではない。蒔野の演奏についての詳細な記述は、彼の演奏の卓越さを表すのみならず、音楽そのものが単線的・直線的に進展する単純な時間性の中にあるのではないことを示している。

 つまり、音楽はその構成上、時間に深くコミットしている。だが構成面だけでなく、楽曲は、制作された時代のいわば記憶を刻み込んでいるという点で、歴史的時間と関わっている。それを前提にして、バッハの《無伴奏チェロ組曲》に、三十年戦争の戦禍を経た人心の慰撫としての役割をみる洋子の歴史的解釈を踏まえると、過去の捉え直しとは、個人の記憶の領分にとどまらず、文化的遺産の捉え直しにもあてはまり、それがひいては新しい作品解釈の可能性に及びうる。このような音楽における時間性の輻輳を描く本作からは、作曲家ショパンの生と芸術を描いた『葬送』以来となる、音楽を題材にした作品を著す作者の、音楽に対する造詣の深さと筆の充実もさることながら、個人と世界をつなぐ時間的な連続的視点を提示する試みが見出せる。

 さて、音楽における複層的な時間性と、記憶における可塑的な時間性――時間を介した音楽と記憶の交錯というテーマを扱う以上、語り手は時間的経過に従って単線的に、順に語らざるを得ないという言語表現の制約に、無自覚なはずはなかろう。だからこそ、べートーヴェンの日記の一節「夕べにすべてを見とどけること」を蒔野に言及させることで、語り手は冒頭の序文において、蒔野と洋子の物語のすべてを見届ける特権的場所に立って、時間の逆行が許されることを念押しするのだ。

 さらに、筋を展開させる原動力となっている古典作品の扱いにおいても、語り手は古典をひとつの文化的「過去」として、その捉え直しを示していると言えよう。リルケの『ドゥイノの悲歌』、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』、ルネ・シャールの詩の一節などが、現代を舞台にした小説――これらの作品からすれば「未来」ということになろう――の中で、ある種の転生を経て、作品の本質部分と密接に関わっているのだから。これもまた、「過去」がもつポテンシャルのひとつの活用例である。

 しかしながら、その古典の活用は決して高踏的ではない。なにしろ、本作は毎日新聞に連載されていた新聞小説である。読者の期待を翌日までほどよく引き延ばすために、筋の展開を細切れにして、メリハリのある変化をつける工夫が施され、それ相応に幅広い読者層を惹きつけるように、周到な配慮がなされている。男女の愛と成熟の行く末に夢中になるもよし、記憶をめぐって紡がれていく物語として堪能するもよし、練り上げられた繊細な文章の余韻に浸るもよし――平野作品に今まで触れたことのない読者が、新たに広く開拓されるであろうことは間違いない。

新潮社 新潮
2016年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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