村田沙耶香は変わってる!? 西加奈子も「あれ? この人……」

対談・鼎談

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

しろいろの街の、その骨の体温の

『しろいろの街の、その骨の体温の』

著者
村田沙耶香 [著]
出版社
朝日新聞出版
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784022647849
発売日
2015/07/07
価格
770円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

[対談]西 加奈子+村田沙耶香 思春期と創作

血だらけで戦っている人

西さん02
西加奈子さん

西 初めて沙耶香ちゃんと会ったのは、2010年の9月に北京で行われた「日中青年作家会議」に出席したときでした。日本側のメンバーは、茅野裕城子さん、山崎ナオコーラさん、中村文則さん、綿矢りささん、青山七恵さん、羽田圭介くん、そして沙耶香ちゃんと私。それまでも作品は読んでいたし、顔も知っていたので、クールな人だろうと想像していたんです。実際、空港で待ち合わせたときも、率先して「パスポート、集めます」と仕切ってくれたりして、なんと凜としたしっかりした人なんだろうと。でもしばらく一緒に過ごすうちに、「あれ? この人……」ってなってきて。
村田 それまで海外に行ったことがないわけではなかったけど、旅行自体に緊張していたし、もともとすごく人見知りな性格なんです。
西 海外旅行が怖すぎて、パスポートを腹巻きにいれてたんやっけ?
村田 盗難防止のために、服の下に巻くベルト状の貴重品入れを買ったんです。そのことを旅行の最初のほうで加奈子ちゃんに言ったら、帰りぎわになって「仲良くなったから言うけど、それ、おじいちゃんが使うやつやで」と。

西 初対面で、どこまでツッコミを入れていいかわからなかった。どこでキレるかもわからないから、北京にいる間じゅう沙耶香ちゃんを観察して、これは相当な人やなと確信したんです(笑)。
村田 ひどい(笑)。
西 「よう来たな」とかも言ったよね。
村田 言われました。海外旅行も不慣れだし、英語もぜんぜんできないし、すごく人見知りなのにって。
でもこの出会いが、本当によかった。楽しかったし、普段は話し合うことのない作家同士で仲よくなれて。
村田 本当にあのとき行ってよかったです。

村田さん02
村田沙耶香さん

西 しかも私は、作品を読んでいるだけではわからない村田沙耶香のすごさに気づくこともできたんです。まず沙耶香ちゃんは、戦っている人。その戦いかたも、みんなで連れだって石を投げるんじゃなくて、一人で最前線を張って石を投げている。もし死にそうになっても誰も助けられないような、味方のいない場所に乗り込むのも平気なんです。捨て身で、裸で、血だらけで戦っている人です。そういう人はえてして、私のようなずるい人間に「おまえなんで服着てやってるねん」と厳しい態度をとります。それは悪いことじゃない。でも沙耶香ちゃんはお会いしたら本当に優しくて、その優しさも、上から手を伸ばして下の人間を引っ張り上げようとするのではなくて、下にいる人間の地平まで降りてきて、それより下に潜ってでも一緒に上がろうとしてくれる感じです。私がいろいろと相談すると、いつも一緒に悩んでくれて、いつのまにか私より涙目になっていたりするもんね。こんなに優しくて、華奢な人が、あんなに攻めた小説を書いていることに感動します。
村田 ありがとう。こんなふうに、面と向かって言ってくれたことないよね。いつもけなされてばかりで。
西 そうやんな。
村田 今日もさっき、「沙耶香ちゃんのトークイベントやけど、あんたは喋らんといて」とか言われたんですよ。
西 そういう罵詈雑言も許してくれるところも、ほんと尊敬してるよ(笑)。なにをいちばん尊敬するかというと、作家というのは自分の書いたものに対してこんな人間と受け取られたらいややなとか、頭よく見られたいなとか、邪心を持つものです。ぜったいあかんことですけど、やっぱりプライドもあるから。でも、村田沙耶香の作品からは一切、本当に一切それを感じないこと。『しろいろの街の、その骨の体温の』(朝日文庫)の文庫解説にも書きましたが、すっごく乱暴なことを言うと、村田沙耶香は小説がへたやと思うんです。それは、どう見られるかを一切考えないのと同じように、どう書いたらたくさんの人に褒められるかといった算段をまったくしないから。読む人がどうこうと考える前に、自分のエゴからではなく、物語が要請してくる表現に忠実でいようとするあまり、小説がいびつになってしまうところがあると思う。
村田 それはそうだと思う。
西 その書き方が、普通やと思ってるよね? でもじつはみんながみんなそうじゃない。作品を読むと、この長さにしたらもっと評価されるのにとか、ここはこんなに攻めなくてもいいのにとつい思うけど、とにかく突っ走っている。それは物語が要求するスピードに完全に乗っかるからです。そこが、村田沙耶香の、いちばんの村田沙耶香性やと思う。
村田 たしかに、終わりは決めないで小説を書きだすことしかできないんです。
西 『しろいろの街の、その骨の体温の』は、どういう経緯で書き始めたの?
村田 最初に依頼を受けたときは、担当の編集さんに「村田さんが書くものでハッピーエンドが読んでみたいです」と言われて、すぐに「無理です」と答えました。最悪の会話ですよね。でも、ハッピーエンドになるかどうかは作品に聞いてみないとわからないのでと言いました。
西 その編集者も、いきなりハシゴを外された感じやな(笑)。
村田 でも話すうちに、私が生まれ育ったニュータウンを舞台にしたいとずっと思っていると言ったら、反応してくれて。そこは変わった町で、毎年夏休みが終わると転校生が十人とかクラスにやってくる。町が成長する様子と、中学生の成長を一緒に書きたいと思いました。それで初めて、自分の作品に具体的な場所を与えてみたのが、この作品です。
西 これは長いよね。
村田 いままで書いたものでいちばん長いね。
西 そこが成功ポイントやと思う。この長さの間じゅう、村田沙耶香性がきれいにひきのばされている。どの行も怠けていなくて戦っているけど、その密度がひきのばされて、でも薄まってない感じがしたんです。読んでいない人のために詳細は省きますが、ハッピーエンドと言えなくないけど、それもどうなるかはわからなかった?
村田 実際に途中まではハッピーエンドになりそうもなかったです。
西 そういうところ、あるよね。沙耶香ちゃんはふだん、ノーと言わないんです。飲んでいて急に誘っても来てくれたりとか。でも作品のことは絶対に譲らない。編集者の希望とか完全に無視やんな(笑)。
村田 打ち合わせというか、話している間はできそうでも、家に帰って原稿に向かうと、原稿の声のほうが大きいから、編集者さんが言ったことは消えてしまうの。
西 そうすることを怖いと思わない?
村田 ある編集者さんが、「村田さんは作品にとって大事なことは聞いてくれるけど、意味がないと判断したら無視してくれるから、逆になんでも言いやすい」と言ってくれたことがあって。「全部提案した通りにされるほうがいやだ」と。それでますます増長しています。
西 百枚の約束の原稿を、三百枚にして渡したこともあるって聞いたよ。
村田 物語がそれを必要とするから、これでいいかなと思って渡したら、そのまま掲載されました。『しろいろの街の、その骨の体温の』は書き下ろしだったので、枚数自由と言われて、自由に書いた。以前『マウス』(講談社文庫)という作品で、小学校と大学生の女の子を書いたので、つぎは私が人生でいちばん残酷な時代と思っている、中学生の思春期の話をとことん書こうとしたのが、この作品です。

神様に向けた小説

西 主人公は結佳ちゃん。親友は信子ちゃんと若葉ちゃん。単純化して説明するのは躊躇しますが、この小説は「スクールカースト」を描いている側面があります。彼女たちは小学生時代までは仲よくやっていたのに、中学でカーストがはっきり形成されているためにばらばらになる。若葉ちゃんは一番上のグループにいるために自分を殺してがんばり、結佳は下から二番目か三番目。ゆるく暮らしているはずが、傷ついてもいます。信子ちゃんは一番下。その三人が同じクラスで成長するんだよね。彼らの人物設定は最初からできたの?
村田 似顔絵を最初に描いたんです。主人公の結佳と、幼馴染の伊吹という男の子の絵を。初潮を迎えることや、初恋を描きたいと最初から思っていたので、主人公が好きになる男の子としての伊吹は重要でした。そこから、みんなが彼女の筆箱とかの持ち物にも憧れるようなかわいい女の子の象徴として、若葉ちゃんの顔を描いたのかな。それから信子ちゃん。結局このクラスの全員、顔を描いたと思います。大半は使わなかったですけど。
西 そう聞くと、みなさんどんなにうまい絵だろうと思うだろうけど、沙耶香ちゃんって絵がへたなんです(笑)。よく描いたね。でも顔が浮かんだのね?
村田 へへへ。浮かんでた。そうです。
西 それはよくわかります。出てこない人までそうやって手をかけていることがよくわかる。全員が切実な存在だよね。誰ひとり、使い捨てのコマとしては動いていませんよね。もちろん作家のメソッドとしては、物語のなかでなにか出来事を起こしたほうが盛り上がるから、そのために逆算して、あらかじめこういう人物をひとり出しておこうと考えることはあります。でも、この作品は頭で考えだした人物がいない。それが村田沙耶香の不器用さでもあるんやけど、素晴らしいよね。
村田 そういう計算ができないの。
西 だからちょっと長くなってバランスを欠くところもあるけど、そのぶん切実でリアルな物語になっているんです。
村田 今回、加奈子ちゃんが書いてくれた解説を読んだとき、泣いてしまいました。いま言ってくれたようなこと、その言葉を励みにずっと書いていこうと思った。書くのはすごく勇気がいる、怖いことです。スティーブン・スピルバーグさんが、演技とはなにかと問われて「人から笑われるのを恐れないことだと思うね。いくらバカにされてもめげずに続ける勇気を持つこと。演技とは勇気だ」と言っていて、これは小説とはなにかという問いにも通じる答えだなと思いました。とにかく笑われるのを恐れない。こんな私でも、ときどきこれは勇気を出しすぎたかなってしんみりすることがあって落ち込むけど、この加奈子ちゃんの解説を読んだら、また新しい作品が書けます。
西 その、ばかにされる側に立つ勇気を持つことって、いまなかなか難しくなってない? たとえばツイッターなどのツールによって、ツッコミ文化が浸透している。たとえば誰かがなにか失敗したら、みんなでそれをあげつらってぶわーって攻撃する、その技術にどんどん長けていってるのが現在です。一斉につっこまれると怖くなるから、勇気を持つことがますますできない。
村田 そうかもしれないね。
西 でもそこを乗り越えることが大事という……。それは村田沙耶香という作家の態度のことだけを指すんじゃなく、『しろいろの街の、その骨の体温の』のテーマでもあるよね。未読の人のためにラストは言わないけれど、結佳が、傍観者という自分が傷つかない楽なポジションでいることをやめて、傷つけられる側、つっこまれる側に堂々と飛び込んでいく話でもあると思う。読んでいて救われると感じました。
村田 ありがとう。ずっと思春期の女の子を書いてきて、「ああ、自分はきっと、ずっとこのシーンが描きたかったんだな」と思った部分だから、そう言ってもらえるととてもうれしい。私自身も、書くことによって出会えたんだと思う。
西 その救い方は、「あなたはきれいだよ、がんばろうよ」という慰めではない。「あなたは醜い」とまず言って、「だけどその醜さには価値があることだよ」と根本的に救ってくれるものだと思います。だから、中学生にも読んでほしいけど、大人が読んでも響くと思うんです。
村田 ありがとう。
西 でも、この境地はどこから来たものなの? 沙耶香ちゃんって容姿は美しいけど、社会的にはあかんやん。
村田 だいぶだめだね(笑)。
西 これほど人につっこまれやすい人間はいないというほど。ゲスい言い方をすれば、どんなにMの女性でも男性でも沙耶香ちゃんを前にすると、Sになる(笑)。私もたいがいひどいことを言っていて、「いい加減にしろ」と怒ったりしてもいいし、自分がいかにすごいかと誇示していいと思うけど、しないよね。
村田 いや、加奈子ちゃんのつっこみはうれしいよ。全部を受け入れてくれている感じがするから。
西 もちろん沙耶香ちゃんを愛してるツッコミやからね(笑)。でも絶対に恰好つけたりしないね。ずっとにこにこして。
村田 それはずるいところでもあって、下が楽なんです。自分はすごいぞと見せたい時期があったとしたら、たぶん中学生まで。でもそのときのことがトラウマになっていて、あのときの卑怯な自分、最悪で嫌いだった自分に戻りたくない。だからにこにこしているほうが楽だと思ってる。
西 中学の卑怯さってどんなものなの?
村田 クラスで残酷なことが起きているのに、何も言えなかったことかな。私は小学校時代から小説を書いていたんですが、クラスの中でなにも言えない卑怯さを、まるで吐くように、すべて小説にぶつけて書いていました。そのときは少女小説家になりたくて――いまはこんなの書いてますけど(笑)、その当時一八歳でデビューして、講談社のティーンズハートのレーベルで推理小説を書いていた井上ほのかさんに憧れていたんです。それで私もデビューしたいと、応募するための小説を書くんですが、そのとき小説を汚したと思いました。なにか狙って書くなんて、あさましくて、汚いことだと。教会で祈るように小説を書いていたはずなのに、そこで自己承認欲求を満たそうとするとは、なんて醜いんだろうと。そのときから、小説を書くことにおいて他人にどう見られるかを気にする態度は捨てたんです。
西 そうやったんや。そんなに早くから徹底していたとは。
村田 中学のときの自分が、自分を殺したし、そこからもずっと、殺し続けている。だから、編集さんのこういうものを読みたいという要求に答えたい気持ちが多少芽生えたとしても、書き始めると忘れてしまうんです。
西 中学のとき、クラスのお友達にも小説を書いてるって言ってた?
村田 言ってたけど、見せてと言われたときに読ませる用の小説を、別に書いていました(笑)。うまく説明できないけど、ちょっと電波っぽい子供だったのかな……。小学校の頃は、ワープロから小説の神様のところに小説が上がっていき、そのなかから良い作品が本として出版される仕組みだと思っていたんです。だから本屋に行き、棚を探して、自分のはまだ本になってないな……と本気で思ってたの。
西 ははは。なにそれ。
村田 さすがに中学になると、神様システムはなくて、出版社の新人賞などに応募するんだと理解したのね。でも、小説の神様という感覚は残っていて、それに向けて書いた小説は、人には見せないと決めたんです。もし面白くないものを、友達同士であるという人間関係を優先して褒め合ったりしたら、だめになる。小説を汚すと。
西 神様に向けた小説を楯のように守るために、けなされても褒められてもいい、ダミーの小説を書いてたんだ。そこまで小説が、沙耶香ちゃんにとって大事なものになったのはどうして。
村田 幼少期から「本当の本当」が口癖でした。「本当」のまだその奥にある「本当の本当」のことが知りたかった。空想癖があり、それを紙に書きとめているときに、自分の手には負えない、自分が考えること以上の領域のことがここで起きるとわかって感激したことがあったんです。大人の作家になってしまえば、コントロールできない物語の動きなのだと説明できますが、子供の頃にその力に引きずられたとき、ここに私が知りたい「本当の本当」があるんだと宗教みたいに信じられた。それが小説にとりつかれるきっかけです。
西 強烈な体験をしたんだね。自分の書いたものが自分を超えていくという。
村田 そうです。なので、いまでも小説を自分で全部コントロールするのではなく、力に引きずられたい。結末を決めずに書くのもそうです。加奈子ちゃんの言う、「へた」な子供っぽい書き方をしているなと自分でも思います。
西 へたと言うと、褒めているようには聞こえないけれど、よくこういう作家が生きていてくれたなという気持ちがあるんです。沙耶香ちゃんには、じつは作家のファンがすごく多いのですが、それはやっぱり並みの作家にはできない小説との向き合い方をしているからだと思います。自己を完全に消して物語の声に寄り添って書くことは、作家の理想ではあるけれど、やっぱり自己を消そうとしても消しきれず、自意識や自己承認欲求の欲の粒が残ってしまう。それを振り切っている村田沙耶香という作家は、私には真っ白に見えます。軽口を許してもらいたいという甘えた気持ちもありつつ、純粋な心を持ったままでいてくれることに感謝したい。よほど、中学のときの経験が強烈だったんだね。

それぞれの子供時代

村田 もともとは人目をすごく気にする子供で、普通になりたいとばかり思っていました。クラスのみんなに朝、挨拶するタイミングも、教室に入るときに「おはよう」か、机についてから「おはよう」がいいのかと悩みに悩んで、けっきょく黙って座ってしまうような感じだったんです。なにもかもうまくできないし、その自意識に苦しめられて、みんなを観察して真似っ子してできるようになりたかった。そのなかで小説を書くことだけが、人目を気にしないでできる唯一のことだったんです。その聖域を汚したら、もうあとは死ぬしかないぐらいの気持ちでいましたね。
西 そうした自意識は、思春期にはだれにも絶対あるでしょう。他の友達もそうじゃなかった?
村田 少なくとも私よりはちゃんと上手に人間をやれていると思った。「人間をやれてる」って不思議な言い方だけど。それに強烈に憧れたし、自分もそうなりたかったです。幼稚園のころ、男子が苦手で近づいてきたら怖くて泣き、子供同士で喋れなくて先生とばかりお話ししていました。先生は大人なので、自分さえいい子を演じていたら問題が起きない。その「いい子供」というペルソナは家の中でも通用するものだったから、その仮面の使い方はわかっていたんですね。でもそのペルソナが通用しない、子供という存在が苦手で……。そんなふうだったので、小学校入学時には幼稚園の先生から「あの子は要注意ですよ」と連絡が行ったみたいです。
西 幼稚園の先生も手を焼くというか、見たことないぐらいのセンシティヴさだったのね。
村田 親もこんなに繊細で大丈夫だろうかと心配していたし。
西 でもそれほど「普通であること」に強烈に憧れていた村田沙耶香は、いま、「普通なんてものはない」ということを強力に書く。これは昔の自分への応答なのかな。なにが普通かなんて、暴力的な価値観はないんだよって。
村田 そうなのかもしれない。
西 ともかく一般通念を疑ってかかる。たとえば、人を傷つけたらいけないと、誰もが教えられずとも知っている「常識」すら、なぜ傷つけてはいけないかと問うのが、村田沙耶香の小説です。それは、普通になりたいと思ってた子だから書けるのかな。
村田 普通になりたいとがんばりながらも、「本当の本当」が知りたいと思っていて。たとえば私の両親は、なぜ自分にご飯を食べさせてくれて、家に住まわせてくれ、お金をかけてくれるのか。親切な人が両親でよかったなと思いつつも、この両親は世界にそうさせられているんじゃないか、システムに乗せられているだけではないかと、ずっとずっと疑っていて。
西 まず家族の愛から問い直すってすごいな。
村田 当たり前と思われていることも、それはなんでなんだろうと考えずにいられなかった。普通とはなんなんだろうというその疑問をいま、小説でぶしゃーっと吹き出してるんです。
西 そうやな。ブレーキなしやもんな。それ、よくわかる。私は、親に対してはその愛情をなにも疑うことはなかったけれど、小学校のときにエジプトに住んでいたことで、自分の置かれる環境については考えてしまう経験をよくしました。父はいわゆる駐在員で、東京にいる海外の駐在員が麻布や六本木の高級マンションに住んでいるのと同じように、カイロではすごくいい地区に家が用意されていたんです。シャンデリアがある部屋で、いつもきれいな服を着て。でもまわりのエジプシャンの子供にひとたび目を向けると、汚い服で裸足だったりする。自分が恵まれていることに感謝はするけど、それは自分の手柄じゃないし、たまたまこの両親のもとに生まれた偶然ですよね。エジプシャンのこの子と私は入れ替わっても不思議じゃないなって。
村田 うん、たしかに。
西 でも、私がずるいのは、それを考えすぎると生きづらくなると気づいて、突き詰めないで蓋をしちゃったことです。それでしばらくすると、蓋をしたことも忘れて気楽に生きていける。見ないことにするという技を覚えたんですね。でも同じようなことはどんな場所でも起きて、たとえば中学のときに女子はブルマを穿かされましたよね。しかも男の先生に何気なく触られたり。そのことを嫌だと思っていても、友達と「あいつ気色悪いな」と言い合うだけで、なんとなく終わっていた。問題にしたり、深く自分で突き詰めて考えて頭が爆発するような気持ちになるより、そのほうが楽だったから。でももっと考えないとだめだったよね。なぜ自分たちが女だというだけで好奇の目で見られるのかは。
村田 どうしてだか、私はそんなことばっかり考えていました。中学のときに女の子たちから「生理的に無理」と言われる男性の先生がいて、その拒絶感がどこから来ているのか頭の中で分析したり。先生の容姿が問題か、話し方か、中身か。それとも社会の仕組みか、男の人を嫌悪する自分たちの側の問題か……。でも結局わからなかった。子供だったから。
西 そのすぐに答えの出ないことを考え続けるって、つらくない? 私は、もし渡らなければならない大きな川幅の川があったら、いちばん頑丈な橋を渡って、しかもこの橋以外にはないものだと考えるタイプの子供だったの。自分の隣で、勇気ある人が、崩れそうな石を踏んで渡っていてもそれは見ない。沙耶香ちゃんは、だれも渡らないところに橋を作ろうとするよね。私も作家になったときに、頑丈な橋しか見ないんじゃなく、他の橋もちゃんと見ようと思って、意識的に変えたの。ずるをせず、おかしいと思うことは考え続けようと。自分で自分の価値観を確立しようと。
村田 すごい。格好いいね。
西 いや、沙耶香ちゃんほどの切実さはないよ。小説を書くときだけ、ずるをしないように考えようと思うわけだから。
村田 私は、自分がばかなだけだと思うよ(笑)。
西 でも世界を変えるのは、たいてい「ばか者」だからね(笑)。
村田 ははは。

思春期を通り抜けて

西 沙耶香ちゃんは、嘘をつきたくないという思いが強くないですか? たとえばみんなでご飯を食べているとき、まずいものをまずいと言わず、美味しいと言ってしまったことをずっと悔やんだりしてたよね。
村田 それは、調子よく人と話を合わせて、たとえば美味しくないトマトを美味しいと口にしてしまったことで、自分のずるさにがっかりしているだけだよ。まわりにはもっとピュアな友達がいて、それを美味しいとぜったい言わず、でもまずいと責めることもしない彼らに比べると、自分がなんて汚れた人間なんだろうってうなされる。
西 でもそのピュアさだけが、真実でもない気がするのよ。たとえば私は小説において、みんなが話を合わせてトマト美味しいねと言っていても、これはまずいと握りつぶすような登場人物をよく書きます。それは、その態度に憧れがあるから。ところが読んでくれた人が、「西さんの小説のおかげで、ありのままでいいと思えました」と感想を寄せてくれると、すごくうれしいけど、ほんとにこれでいいのかなって。天使的にピュアで自分の気持ちに率直な人だけが、ありのままの美しさを持っていると思われたら困るなと感じ始めた。
村田 うんうん。
西 汚れも込みで、それを自分だと認められるほうがいいなと。じつは『しろいろの街の、その骨の体温の』でも、そういうテーマが描かれていると思うし、そういう救い方をしてくれるよね。たとえば、若葉ちゃんは「スクールカースト」の上に居続けるためにまわりに話も合わせるし、それは信子ちゃんだってそう。だけどこの作品は、「それじゃだめだ」とそのメンタルを断罪したりしないよね。ずるくて、卑怯な気持ち込みで、「それがあなたなんだよ」と認めてくれるというか。
村田 たしかにこの作品を書くときには、人間の醜さや卑怯さも、面白いし美しいと感じていました。プロとして純文学とよばれる小説を書くようになって、だんだん卑怯な人間の美しさや、卑怯さも込みの人間のなまなましさが出せればいいなと思い始めた。ずっとずっと小説を書いてきて、大人になっていままでの経験を経てきたから、ようやくこのラストが書けたんだと思います。
西 小説がすごいのは、読む人の価値観を変えてしまう力があることだよね。ひとつ例をあげると、私はずっと不倫はよくないと思ってきた。傷つく人がいるわけだから。でも、なぜ不倫がだめなのかちゃんと考えてこなかった。ところが江國香織さんの『真昼なのに昏い部屋』(講談社文庫)のような不倫を描いた小説を読んで、そこには不倫がハッピーで最高だなんてまったく書いていなくて、傷つく人もなまなましく描かれているのに、でもその個別の恋のなにがあかんのか、こんな美しいものはないと思わせてくれるんです。自分はただ社会通念に囚われていただけじゃないかって。
村田 自分の思考の結果と思っているものが、じつは自分の本当の考えじゃないことに、小説を読むことで気づかされるというのは、よくわかります。あと、小説を書き始めるとよけいにわかるよね。小説を書くという行為に出合えたことで、自分の感情を分析するのも好きになったし、まわりの人の感情を表面的でなく分析することができるようになった気がします。
西 これが村田沙耶香の常識の崩し方だというのが、『しろいろの街の、その骨の体温の』にはよく表れていると思うねん。全力で書かれている。でもこれだけが正解じゃないということも、同時に感じられるようにできているよね。読者はまるきり従う必要はないけど、こういうのもありなんやとわかる。
 中学のときにこの小説が読みたかったというのは、あの年齢の子供たちって、人と違っていることや、意見が違うことが怖いものじゃない? 私もよく「あいつへんじゃない?」と差異をみつけることをよくやっていたし、人にもそう言われていたの。でもそれで言ったら全員がへん。共感もできないへんな者同士が、一緒の教室でずっといるのが中学という場所だってわかる。
村田 特殊な時期だよね。
西 高校になると、そこまで極端じゃないのに。
村田 高校生だと精神的にも大人になっているから。
西 セクシャルなことを含む、第二次性徴期がやっぱり大きい意味を持つのかな。
村田 それはあると思うよ。自分の心身の変化を受け入れるのに精いっぱいだから、誰かを、他人を標的にすることで自分を守る人がでてきてしまう。それが高校生になると、へんな子でも面白がってみんなで仲良くなれたりする。やっぱり中学生は人間として未熟なんですね。
西 沙耶香ちゃんは、これまでの作品でも、この『しろいろの街の、その骨の体温の』でも、セクシャルなことを果敢に書いている。たとえば、結佳ちゃんは性的な芽生えが早くて、小学生の時から伊吹君に、セクシャルな高揚を知らないままに口づけしてしまったりする子ですよね。この女の子像が描かれているだけでも、救われる子がいっぱいいると思うよ。中学になると、男の子がそろそろオナニーを始めるというのが伝わってきて、でもそれを女子たちは「キモい!」って言わないといけないという感じがあって。自分たち女の子には、性欲なんて一切なくて、男側からの性の対象であるだけの存在であるという、まさに社会がおしつける役割をうのみにして、振る舞っていたように思うんです。
村田 清らかなお人形でないと、とはたしかに思っていました。
西 それを、「あなたたちの身体の奥にあるうずきは大切なものだよ」と教えてくれるのがこの小説でしょう。それも、保健体育的な「いずれお母さんになるための準備です」といったおもんない言い方じゃなく、宝物のように書いてくれる。
村田 そんなふうに言ってくれるとうれしいです。私自身、中学生ぐらいまでは、女性は男性のためのとびきり清潔な、性的な欲望の処理の道具であるべきだと考えていたんです。テレビで扱われる女性がたいていそういう存在だから。男性の性欲にぴたっとあてはまるいい道具となって、性欲処理の対象として存在するのが、女性の人生なのかと。清純派で、かわいいほど評価もされて。
西 それはあるよね。
村田 でも高校生になって、山田詠美さんの本に出合ったことで、自分の性欲に忠実でいいんだ、男性の視線からも自由でいいと気づかされて、ようやく恋愛ができるようになったんです。小説との出合いは本当に大きいです。
西 女の子は、好きな男の子のタイプが年齢によって変わるやん? 例えば小学生の時は足の速い子、中学ではヤンキー、高校はバンドの子、大学ではカルチャーを知ってる子、急にある時期からは金を持っているやつを、ぶわーって好きになる。でも男の子は、小さい時から大人になっても一貫してずっと、かわいい女の子が好き。
村田 かわいくて若い子。
西 その一貫性は美しいほどやけど、でも、足の速い女の子や喧嘩の強い女の子を好きになってもいいはずじゃないかなって。あんまり女の子のバリエーションはない。でもそれも社会通念の強固さがなせるものかもしれなくて、人にはそれぞれの美しさ、あるいは「醜い美しさ」があるというのが、この小説では描かれています。結佳の性的なものに対する対処の仕方とかを知るためだけでも、中学生の年代の子たちにこの小説を読んでほしいし、私も中学生のときに読みたかったし、でもいまだからこそ気づかされることもいっぱいある。
村田 大人の読者の方が、いまは大人の世界でももっと残酷なかたちでヒエラルキーが形成されていると教えてくれます。この閉塞感は中学生のものだけじゃないかもしれないです。
西 誰にでもまだ間に合う小説なので、ぜひ読んでほしいよね。

(2015年7月15日、パルコブックセンター吉祥寺店にて)

構成/江南亜美子 撮影/工藤隆太郎

朝日新聞出版 小説TRIPPER
2015年秋号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

朝日新聞出版

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク