『英語という選択 アイルランドの今』 嶋田珠巳著

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英語という選択 アイルランドの今

『英語という選択 アイルランドの今』

著者
嶋田 珠巳 [著]
出版社
岩波書店
ISBN
9784000222983
発売日
2016/06/24
価格
2,916円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『英語という選択 アイルランドの今』 嶋田珠巳著

[レビュアー] 岡ノ谷一夫(生物心理学者・東京大教授)

言語交替の過程と危機

 本書の題目からケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」を思い出した。20世紀初頭、英国統治下のアイルランド。自分の名前を英語で言うことを拒否しただけで若者が銃殺される場面が強く印象に残っている。そのような事実があったかどうか知らないし、現在のアイルランドではもちろんそんなことは起こらない。だが、アイルランド本来の言葉であるゲール語と英語とが入れ替わろうとしていることは事実だ。このような過程を言語交替(こうたい)という。著者は社会言語学的な視点でこの過程を描く。

 著者の調査の結果、アイルランド人の多くが、英語を使うことによって得られる経済的優位性を挙げ、英語を選択することがやむを得ないと考えていることがわかった。このような態度こそが、政治的な強制以上に言語交替を促進すると著者は考える。イソップ寓話(ぐうわ)の北風と太陽を思い出す。言語交替の勢いがあまりに強く、ゲール語話者が消滅してしまう危険に至り、アイルランドでは現在、ゲール語を話すことを奨励している。英語とのバイリンガルを育てようとしているのだ。過去にはゲール語を使う家族に奨励金を出した時代もあったそうだ。言い換えれば、そこまで言語交替の危機が来ているのだ。

 いくつかの事例から、言語交替は3世代で起こり、4世代で定着すると著者はいう。現在の日本では、英語を操ることで経済的・社会的利益を得られるように見えるし(果たしてそうだろうか)、企業も大学も英語を用いることを推進しようとしている。この状況では家族が自発的に子供に英語を学ばせるのは仕方あるまい。言語交替の第1世代はすでに始まっているのだ。しかし言葉は単なる営業手段ではない。言葉は心を作るのだ。自分の孫たちが日本語で名乗ることができなくなったら、と思うと胸が痛む。言葉が変わりゆくものであるのはやむを得ないことだが、グローバル化の名の下での英語導入がそのような帰結に至らないことを祈る。

◇しまだ・たまみ=明海大准教授。専門は言語学。著書に『English in Ireland:Beyond Similarities』。

 岩波書店 2700円

読売新聞
2016年9月4日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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