「冒険家」と「作家」はいかに融合されていくのか?
[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)
文章に導かれるままに、おとなしく順番に読んでいくということができない本だった。読むそばから「自分がほかの分野で、言おうとしてなかなか表現できないでいたのはこのことだ」という猛烈な共鳴りが脳内にまきおこるせいだ。
著者角幡唯介は冒険家であると同時に冒険作家でもある。これまでに『空白の五マイル』『アグルーカの行方』などの力作をものしている。それらは実際の探検にもとづいて書かれた探検記であるが、本書は対談や書評、作家論などの文章を収録したもの。つまり、探検記と相互補完的にこの作家の姿勢や哲学を表しているといえる。
冒頭で、表現者として出発した当初に抱えていたジレンマが語られる。探検家は「行動者」だ。探検をするのが純粋なありかたで、その体験を文章に書いたものは探検の副産物にすぎない。まして、本を書くことを前提にして探検するのは、「行動者」として不純なのではないか。著者のこのような自問は、世間から向けられる疑問でもあった。
著者はこれに対してひとつの解答を示した。冒険・探検は社会の枠組みの「外側」を目指す行為であり、「外側」に出ようとするからには「内側」に対する批判的な視点が不可欠だ。そして、冒険・探検行為が「内側」に対して向けられた身体的批評行為だとすれば、それを文章で表現することもまた自然だ。こうして「行動者」と「表現者」の両側面が融合されていった経緯が、すなわちこの本なのである。
開高健『夏の闇』論、夢枕獏『神々の山嶺』と井上靖『氷壁』論、沢木耕太郎や石川直樹らとの対談など、収録されたどの文章も興味深いが、日本の現代社会を痛烈に批判する「富士登山者、管理を求める人々」がすばらしい。努力に見合う満足をあらかじめ計算し、みずから進んで管理されたがる現代人の奇妙さを、管理の外側から発せられた言葉がきれいに撃ち抜いている。