からだと脳の不思議な関係

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脳はいかに治癒をもたらすか――神経可塑性研究の最前線

『脳はいかに治癒をもたらすか――神経可塑性研究の最前線』

著者
ノーマン・ドイジ [著]/高橋 洋 [訳]
出版社
紀伊國屋書店
ジャンル
自然科学/自然科学総記
ISBN
9784314011372
発売日
2016/06/30
価格
3,300円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

からだと脳の不思議な関係

[レビュアー] 仲野徹(生命科学者・大阪大教授)

ひとことでいうと、調子が悪くなったから配線を組み替える、あるいは、違うパーツを使い回してなんとかする、というようなことになるのだろうか。ただし、電化製品や自動車ではなくて、脳の話だ。それも、からだを操ることによって直して、いや、治してやろうというのである。そんなことできるのかと思われるだろうが、さまざまな疾患についての実例がたくさん紹介されている。
たとえば、痛みの原因が完治しているのに、痛みがいつまでも続く慢性疼痛である。そのうちの一部は、急性の疼痛が長期間続いたため、脳に「痛みのシステム」がオンになり続ける神経回路ができてしまうことによって発症すると考えられている。ならば、それを打ち消すような神経の結合を形成してやって、痛みのシステムがオフになるように回路を変えてしまえばいい。さて、どうするかだ。外科手術で、神経回路を電気回路のように切ったり繋いだりするわけにはいかない。しかし、難しいことではない。「痛みを感じるたびに、脳を慢性疼痛発症以前の状態へと配線し直す意図を強く込めながら、心を集中して押し返す」だけでよくなるというのだ。
顕著な効果があった実例のひとつは、首の慢性疼痛に悩んでいた痛みの専門医・モスコヴィッツ本人のケースだ。膨大な量の論文を読んだモスコヴィッツは、脳の可塑性を信じ、痛みを感じるたびに、脳における痛みの回路がなくなる想像─痛みがなくなった脳を視覚的にイメージすること─を続けた。三週間後から少しずつ効果があらわれ、一年後には痛みが完全に消失した。もうひとつの例は、モスコヴィッツの指導をうけた女性患者で、痛みがなくなった脳の絵を見続けることによって、十年間も煩(わずら)わされた慢性疼痛を消し去ることに成功した。
こう書くと簡単なことのように思えるが、強い意志をもって効果を信じ、痛みを感じるたびに必ず毎回、来る日も来る日も延々と継続することが必要なのだ。誰にでもできることではない。しかし、少なくとも一部の患者には著しい効果をあげたことは間違いない。
〈柔道の父〉として知られる嘉納治五郎(かのうじごろう)に出会い、物理学者としてのキャリアを自ら絶ち、「最初の神経可塑性療法家の一人」になったモーシェ・フェルデンクライスが対象としたのは、より高度な脳機能の回復である。「脳は運動機能なくしては思考できない」という考えから、身体性を重視し「運動を通じた気づき」を基本とする方法を確立した。
フェルデンクライスの施術をうけて、脳梗塞の後遺症である認知症が消失した六十代の女性がいる。フェルデンクライスも語っているように、これは改善であって回復ではない。梗塞によって損傷をうけた脳の神経回路はけっして元にはもどらない。損なわれた機能が他の神経回路によって代行されるようになったのである。ただし、この症例で注意すべきは、フェルデンクライス以外がおこなう施術には効果がなかったことだ。
モスコヴィッツとフェルデンクライスの話だけでなく、歩き方を独自に工夫してパーキンソン病の症状を押さえ込んでいる男、想像力と記憶を組み合わせた視覚化を利用した視力の改善、特殊な音楽療法による自閉症や発達障害の治療、などの例が詳しく紹介されていく。どれも、驚くべき話ばかりだ。
学術的に広く受け入れられている話ばかりではないし、私自身も、正直なところ、すべてを信じている訳ではない。とりわけ、器具を用いた脳のリセットや刺激については、原理的なことがあまりに曖昧で、かなり懐疑的だ。
フェルデンクライスの例のように、特別な施術者がおこなわないと効果がない場合が多いことも気になる。高度な方法論が必要ということなのかもしれないが、どうしても、ある意味でプラセボ(偽薬)効果のような〈まじない〉なのではないかという疑念が残ってしまう。もうひとつ、著者も指摘しているように、紹介されているのは特殊にうまくいった症例ばかりで、他ではそれほどうまくいかないのではないかという懸念も残る。
そんな問題を感じているのに紹介するのはけしからん、と思われるかもしれないが、それは違う。なによりも重要な事実は、特殊な施術者が必要であろうが、一部の患者でしか効果がなかろうが、まじないであろうが、実際に症状が奇跡的に改善する人がいることだ。たしかに、現時点では逸話的な物語と言わざるをえないかもしれない。しかし、なんといっても、からだの操作による脳機能の改善の可能性には驚かずにいられない。それに、もう一歩研究が進めば、どのような症例に効果があるかの判定が可能になり、特殊な施術者でなくとも広くおこないうる治療法になるのではないか、という期待を抱かせてくれるのに十分な内容になっている。結局のところ、そんなことよりも、想像だにしなかったからだと脳の関係の素晴らしさにわくわくしたことが、この本を紹介したくてたまらなくなった最大の理由なのであるが。

紀伊國屋書店 scripta
autumn 2016 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

紀伊國屋書店

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