祖国台湾と統治国日本に引き裂かれ…青年が見た現代史
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
『食は広州に在り』をはじめとする食の随筆や数々の蓄財の指南書で知られる邱永漢(きゅうえいかん)は一九二四年、日本統治時代の台湾の台南に生まれた。秀才で東大に学んだ。しかし戦時中は祖国台湾と統治国日本とに引き裂かれ、戦後は、新しく支配者となった蒋介石率いる国民党に抵抗した。そのために官憲に追われ、香港への亡命を余儀なくされた。
戦前の日本と戦後の国民党。二重の苦難を負った。この二作は、邱永漢の、苦の多い若き日の彷徨を描いた青春小説であり、一人の青年から見た台湾の現代史でもある。
「濁水渓(だくすいけい)」は、ほぼ邱永漢の自伝といっていい。台中に生まれ育った若者が成長すると共に、被支配国の悲しみを知るようになる。日本人による差別に耐える。
東大生時代には反日的だと官憲に逮捕される。釈放されるが今度は強制志願による徴兵が待っている。兵隊になったら中国人に銃を向けなければならない。そんなことは出来ない。
命がけで逃げる。幸い、捕えられずに終戦を迎える。祖国に戻る。しかし、新しい独立国家の夢はすぐに壊れる。大陸からやってきた国民党による苛酷な弾圧が始まる。
侯孝(ホウ・シャオシェン)賢監督の「悲情城市」(一九八九年)で日本でも広く知られる二・二八事件(国民党による武力弾圧、粛清)が刻明に描かれる。絶望した若者は香港へと逃げる。
「私は、私の青春が空しい敗北また敗北の連続のような気がした」
一方、「彼は追われていた」で始まる「香港」は、国民党から逃がれて香港に亡命した若者が、最底辺の生活をしながら生き延びる物語。直木賞受賞作。「濁水渓」に比べフィクションの要素が濃い。
金のない若者は、香港のスラムで水運びや、屋台ののしいか売り、伊勢えび取りなどをしながら生き延びてゆく。ディケンズの成長小説のような面白さがある。
台湾を追われ香港に来て日本との密輸で大儲けした男や一攫千金を夢見る老人たちがあやしい魅力を放つ。
濁水渓は台湾の川。いつも濁っている。台湾の厳しい歴史のように。