森鴎外の“性欲”自叙伝 『ヰタ・セクスアリス』

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『ヰタ・セクスアリス』

[レビュアー] 渡部昇一(上智大学名誉教授)

 この本の題名だけを見ていた頃、「ヰタ」はラテン語の「時代」と思っていた。この本を読み終えれば解ることだったが「ヰタ」のヰはワ行であり、「ヰタ」はvitaであり、鴎外はちゃんと性欲的「生活」だとしている。

 この本の主人公は金井湛(しずか)という哲学の先生で講座は哲学史を受け持っている。小説は沢山読む。自然主義派の小説が流行してきた時、それを面白いとは感じながらも自分も書きたいとは思わなかったが、夏目金之助君が小説を書き出した時は「技癢(ぎよう)」を感じたと言う。「技癢」という語は「実力を示す機会がなく、他人の技を見て腕がうずくこと」と注解されている。金井湛、つまり鴎外は漱石の文筆活動を見て腕が、正確には指がうずいたのである。その頃たまたま学生が教室に持ってきたオーストリアの哲学者の本を借りて読んだところ、「凡ての芸術は『求愛』をもとにしている」とあったので、その刺戟から金井の「技癢」は自分の性欲的生活を子供の時からたどって書いてみようという方向にむかうのである。つまり本書は鴎外の性欲面からの自叙伝である。

 これによると鴎外は性的には「奥手」であったことがわかる。「学問をする者は性的な成熟は遅くなければならない」と私の恩師佐藤順太先生は言っておられたが鴎外はそうだった。この本で驚くのは当時の寄宿舎における男色の横行である。年若い鴎外はその獲物としてつけ狙われることになる。

「……本を見ていると、梯子(はしご)を忍足(しのびあし)で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人(かりゅうど)を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦(かわら)は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭(かげ)にしゃがんで、懐(ふところ)にしている短刀の欛(つか)をしっかり握った」

鴎外は結局、短刀を使わずに卒業する。そして吉原でdubを経験するが、病気にもならず、おぼれもしない。そのうち、ドイツ留学して、そこでは華やかな話があるらしいが、さっと書き流しているだけだ。執筆当時、鴎外は陸軍軍医総監。この作品をのせた雑誌は発売禁止。

新潮社 週刊新潮
2016年10月13日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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