日本語の成り立ちを辿り直す壮大なSFジャズ小説 鴻巣友季子

レビュー

10
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ビビビ・ビ・バップ

『ビビビ・ビ・バップ』

著者
奥泉 光 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784062200622
発売日
2016/06/23
価格
2,808円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

日本語の成り立ちを辿り直す壮大なSFジャズ小説 鴻巣友季子

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家)

 ヒロインはジャズピアニストで、その名も「フォギー」。語り手は「(エリック・)ドルフィー」という名の猫——と聞いたとたん、奥泉読者は幾つかの先行作を思いだすだろう。とくに『鳥類学者のファンタジア』とは、続編というべき関係にある。

 本書をひと言でいうなら、「二十一世紀末の人工知能(AI)社会を舞台にしたSFジャズミステリー」ということになろうか。二〇二九年に、電脳大感染(パンデミック)が起き、一度世界は大混乱に陥ったという設定だ。ジャズと言っても、今時のクラブジャズでは当然なく、ばりばりのモダンジャズ。もはや落語や歌舞伎などと並ぶ古典芸能と化した「ダンモ」は、高度なサイバーテクノロジーによって、その音源、映像、各種データが保存、加工されて、技が継承され、一部の熱心なファンを得ている。名演をヴァーチャルに再現する「新宿Pit Inn」や、生身のプレイヤーが演奏する「アケタの店」などのライブハウス、植草甚一や寺山修司らの精巧な疑似現実的事象(ヴァーチャルマター)が集う新宿ゴールデン街のスナック……。フォギーは、ロボット製作販売の超巨大企業(スーパーメガファーム)の偉い人「山萩」から、自らの架空墓(ヴァーチャルトゥーム)の音響設計を任され、葬式で「さよならパパゲーノ」という哀愁のジャズナンバーをヴァーチャルで再現した古い型のべヒシュタインで弾いてほしい、という古風な注文を受ける。肥大したテクノロジーによって、むしろ人間らしいふれあいや、アナログな生活感、アングラなサブカルシーンが甦っている。

 こうしたコンテンツとサーフィスの「ずれ」は、ここ十年余りの近未来小説に共通することかもしれない。とはいえ、多くは『ビビビ・ビ・バップ』とは逆で、たとえば、見かけは原始的な社会が現れる川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』、飛脚の走る管理社会を描く多和田葉子の『献灯使』、二十世紀末の古めかしい寄宿舎が舞台のカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』などは、リアリズム小説に立脚して素朴な世界を描出しながら、その奥では、ラディカルな科学技術の導入をベースに、人間のありかたの変容を描いている。すでにクローン技術が実用化されている『わたしを離さないで』では、この技術開発の起点を第二次大戦中にずらすことで歴史改変し、リアリズム小説では嘘っぽくなりがちな〈未来図〉を描くことをうまく回避している。

 しかし、『ビビビ・ビ・バップ』はフィクションという嘘と真っ向から渡りあい、まさにビ・バップのような熱いセッションを繰り広げる。作者本人いわく、「この小説自体がジャズだ。しかしフリージャズではない。スタンダードを演(や)りながら、目一杯逸脱するエリック・ドルフィーのプレイそのものだ」。

 今回、奥泉光が虚構とのバトルに用いたのは、SFモード全開のパスティーシュ文体である。或る場面のフォギーは「多糖ゲル(PG)座席(シート)」に横になり、入眠剤として「個人遺伝子(パーソナルゲノム)に応じた注文処方薬(オーダーメイドピル)」を飲もうか迷うという、なんだか超先端っぽい未来図の中に自らをおく。電脳空間(サイバースペース)、生体認証鍵(バイオメトリクキー)、全脳送信(TBU)といった、日本語の横にカタカナや英語を添えるこのルビ遣いは、一九八〇〜九〇年代に、ウィリアム・ギブスンなどの訳者である黒丸尚が得意とした翻訳SF文体をただちに想起させる。作者はオマージュをこめてこの翻訳文体を駆使し、目映いばかりのSF的字面を創出している。とはいえ、本作の真のコンテンツはSFではない。殺害事件も起きるが、謎解きも要点ではない。では、何が核心だろうか。

 多糖ゲル(PG)座席(シート)に横たわるフォギーは、自分を「舌切り雀で小さい葛籠をもらったお婆さん」に準えたりするが、全編で、デジタルとアナログ、最新とレトロ、洋と和の交歓と衝突が展開する。

 重要なのは、こうした交歓と衝突が日本語の本質的な二重構造(デュアリズム)を体現しているということだ。思わず私までルビをふってしまったが、作者はついつい翻訳SF文体から逸脱して止まらなくなり、寝台(ベッド)、図書館(ライブラリー)、現実(リアル)、鍵盤(キーボード)、恐慌(パニック)、国際空港(インターナショナルエアポート)などにまでルビをふりまくる。この「ついルビをふってしまう」心理が、私には非常に興味深い。日本語の言葉の多くは中国語か西洋語からの翻訳語だが、右記の熟語も翻訳借用語であり、ルビで原語を示す形になっているのだ。作者はついには、眼化粧(アイメイク)、脇棚(サイドボード)という、外来語として定着した音訳借用語を、逆に漢字熟語に訳すような本末転倒(?)にまで乗りだす。

 明治期、サンボリズム詩の翻訳には、怪物(シメール)、裸形(ニュージテエ)など原文のフランス語読みのルビをふって解釈の助けとした。いや、そもそもカタカナは漢文訓読の振り仮名(ルビ)という役割から始まっており、日本語と翻訳とルビの関係はあまりに深い。『明治の表象空間』で松浦寿輝は、明治期の漢語と右ルビ・左ルビを織り交ぜた翻訳法にふれて、「悪戯ごころ」という表現を使っているが、ちなみに『鳥類学者…』にも「出奔」と書いて「出てカケハシル!」と左ルビのような割注をつけて、大いに興奮するくだりがある。つねに他言語とやまとことばの間で言葉を捻出してきた日本語の話者には、リービ英雄の言う「バイリンガル・エクサイトメント」が内蔵されているのではないか。『ビビビ・ビ・バップ』の隠れた狙いは、日本語の成り立ちを辿り直すことかもしれない。

 さて、本作では、(疑似)三人称多視点文体がとられているのも見逃せない。〈語り手〉はなぜ他人のことを知ったように描けるのか。日本語はこの「神の視点」文体で書くのに向いていないと長く言われてきたし、奥泉光はとくにその嘘臭さを鋭敏に意識する書き手だ。一人称の視点、視界の限界を打ち破るために、『神器』は、一人称で始めながら、「俺」を次第に後退させていつのまにか三人称同様の文体に移行させた。『東京自叙伝』では、一人の「私」が限りなく分裂し転生するという形をとった。『鳥類学者…』では、「わたし」が自分を「フォギー」と呼んで三人称で語り、時空間ワープすることで、自分の知らない人物のことも語り得る絡繰りを設定した。

『…ビ・バップ』では、猫の語り手がこう弁明する。「(自分が全事象に接続(アクセス)できるのは)単純に吾輩が小説の語り手(narrater)だからだ。およそ小説の語り手(narrater)なる者は、たとえ本人がそれと気づいていなくとも、《超空間》に接続する体術心術を心得ているので——いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいゝ。ともかくも心得て居る……」。とドルフィー猫は言うが、さて、本当に彼が本作の語り手だろうか? 本編の一行目にさり気なく書かれた言葉にこの巨編をひっくり返す罠がひそんでいるかもしれないので、ご注意を。

 書き手には虚構と現実が剥き出しで接触することに対する恐れがある。作中に「わたしという語り手」の存在を描くことで、それが墻壁となって両者の接触を妨げるのだろう。三人称文体については、連載中の「雪の階(きざはし)」でさらに推し進めているとのことなので、次作も心して待ちたい。

新潮社 新潮
2016年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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