懐かしい遺体 丹生谷貴志

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BB/PP

『BB/PP』

著者
松浦 寿輝 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784062200318
発売日
2016/06/21
価格
1,836円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

懐かしい遺体 丹生谷貴志

[レビュアー] 丹生谷貴志

 二人の松浦寿輝がいる、粗雑を承知でそんな風に想像してみる。一人は所謂(いわゆる)「現代思想」を総覧する先鋭な知性、所与世界を一挙に掌握・包摂し解読し尽くすかのような第一級の才能を持つ表象研究者としての松浦寿輝、そして一方にそうした「世界掌握への意志」を(殆ど厭離するかのように)癇癖に放棄・放散する小説家松浦寿輝がいるといった風に。例えば中村光夫や蓮實重彦なら、彼らの小説と批評家・研究者としての仕事との間の補完性、一種パロディックな照応関係を認めるのはさほど難しくない。しかし松浦の場合、批評家・研究者としての松浦寿輝と小説家松浦寿輝との間に補完的照応を見出すことに不思議なくらい難渋するのだ。むしろ、そうした補完関係の否認において小説家松浦寿輝の小説は書かれているかのように。何が否認され拒否されているのか? 研究者・批評家的な欲望、不可能性への自認においてであれ所与世界を掌握・包摂しようとする執拗な解説の欲望、である。松浦寿輝の小説には世界への掌握・包摂の欲望が不思議なくらいに欠落している。その欠落、放棄、或いはあらかじめの放散こそがその主題であるかのように。

 ……ここ十数年の間に書かれた九篇の短篇を集めた本集を貫くモチーフは「所与世界の掌握・包摂の放散」であるだろう。表題作『BB/PP』はグロテスクな戯画のかたちで「包摂/所有の意志」への文字通りの切断を描いた寓話である。生殺与奪に至るまでの「所与世界=女」の所有を享楽する男が、幾人もの妻の惨殺の後に徹頭徹尾自分の意志/欲望を出自とする「人工の女」を作り出そうとし、逆に切り刻まれて死んで行く……。このグロテスクな戯画を序曲に、本書の続く諸作はしかし、ミステリー風コント『四人目の男』、ヴァレリーの『テスト氏との一夜』の一筆書きのパロディー『ツユクサと射手座』を除けばそれぞれ私的体験を投射したと想われる淡々とした「私小説的」印象の短篇群からなるが、そのどれにおいても「所与世界の掌握・包摂の意志」の放散というモチーフは変わらない。『四人目の男』の主人公は自分が何の事件の網に巻き込まれているのかさえ一切掌握出来ぬままに小篇は閉じるのだし、『ツユクサと射手座』の「無限の全宇宙を全細部にまで包摂するパターン」公式に憑かれた天才数学者「T…氏」はその意志にテスト氏的な陰翳も渇望に噎ぶ幽鬼程の影も与えられぬままに、ガロアという名の猫の重みだけをわたしの膝に残して消えてしまう。『石蹴り』では少年期の或る情景、自分の手の上に落ちた幼女の手の月影のように全てが融解の中にしかない想いが語られ……「所与世界包摂の意志」は地面に幾つかの輪を描いて戯れる月夜の子供たちの石蹴り遊びに映されて、消えてしまう。『手摺りを伝って』ではおそらくは死期を間近にした病人である友人が繰り返し見る「手摺りの夢」を「わたし」に語り続け、そこから繰り出された「人生の或る時」が自分の生の具象を要約するという一種の神秘感情が語られることになるが、それは全人生が「あの手摺りの肌触り」に包摂され要約される至福の容認へと開きつつしかし、それもまた切実だが空虚を満たすほどの確証を欠いたまま、死んで行く者の想い以上のものとはならぬままに放散される。『水杙』では要するに神楽坂を歩く「死病の病み上がり」の男の語り、すべては一切の把握の意志を欠いたまま死出の独りの道行きに淡々と泳ぎ込んで行く。『ミステリオーソ』はおそらく留学時代の私的体験を遠く投射した短篇、パリの夜、喚起されるセロニアス・モンクの楽曲、ここでもモチーフは定在のない具象と記憶という、放散だけからなる反復の呟きで閉じられる。残る二篇は『薄ぼんやりと、ゆらりと二つ』、『T字路の時間』……と、もはや題名だけに留めておく。

 松浦寿輝の短篇集『BB/PP』はその全体で「所与世界の掌握/包摂の意志」への否認/放散を巡る執拗な反復として読まれる。しかしそれだけならば、「所与世界の掌握/包摂」の能力に恵まれたもう一人の松浦寿輝をアルター・エゴとして疎隔するかのような小説家・松浦寿輝の奇妙な倒錯性を読んで終わるだけのことになりもしよう。しかし、本作の読後感をただならぬものと感じさせるものがあって、それは短篇集であるが故に鮮明に見て取れるその放散の執拗な配慮である。例えば「意志の放散」というモチーフは『BB/PP』や『ツユクサと射手座』のような作においてすら「意志の挫折」といった匂いを伴うことが一切ない。「意志の挫折」は挫折という身振りにおいてそれを一種の悲劇性(或いは悲喜劇)に裏返したかたちで物語に固着させる。その匂いを松浦寿輝は潔癖症の気難しさで消し去る。人生の苦さ(!)を語るかにも見える一見平凡な設定が何処か置き場のない灰色に宙吊りにされて行くような印象を帯びるのはそれ故だ。さらに決定的な特性がある。小説はそれ自体が散文によって屈曲したかたちで所与の世界を掌握/包摂しようとする意志であるとすれば、松浦はそれすらも放散させようとするかのような「文体」を作り出す。意外なことに(?)松浦の小説の散文は対象を捉えようとする粘着性を不思議なまでに欠落させ、ひたすら陰翳の希薄な一種の紋切り型の集積からなる文体が貫かれる。ことここにいたって、小説家松浦寿輝とは何者なのかという置き場のない戸惑いが、とりわけ何かしら先鋭な「前衛性」めいたものを松浦寿輝に期待するかもしれない読者を襲いもしよう。私としてはしかし、ここにいたって松浦寿輝は、周到な仕掛けで「小説」を引き伸ばされた仮死の反復の中に置くことを決意した「最後の小説家」に成り遂せようとしているのではないかという思いに襲われ、この短篇群が懐かしい遺体のように、不意に奇妙な蠢きを示す瞬間を待機し始めることになる。

新潮社 新潮
2016年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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