金正男は今、どこにいるのか――北朝鮮の“放浪のプリンス”を追った五年【自著を語る】

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父・金正日と私 : 金正男独占告白

『父・金正日と私 : 金正男独占告白』

著者
五味, 洋治, 1958-
出版社
文藝春秋
ISBN
9784167907198
価格
770円(税込)

書籍情報:openBD

金正男は今、どこにいるのか――北朝鮮の“放浪のプリンス”を追った五年【自著を語る】

[レビュアー] 五味洋治

「金正男(キムジョンナム)は今、どうしているのか」――

 本書『父・金正日(キムジョンイル)と私 金正男独占告白』を出版した二〇一二年以来、それこそ無数に聞かれた質問だった。そのたびに、どういうべきか、返答に戸惑った。

 実は、答えは簡単だ。

「連絡がつかなくなり、行方が分からないままになっている」

 しかし、それは正確ではないかもしれない。連絡は今もできる状態になっているからだ。

 携帯電話は変えていないようだ。かけると呼出音がして、本人らしき人物が英語で答えてくる。こちらが名乗ると切られてしまう。その繰り返しだった。

 メールアドレスも、私と活発にやりとりしていた時期と変わっていない。メールを出してみるとエラーにはならない。届いてはいるようだ。以前と同じアドレスを使っているのは間違いない。

 北朝鮮に関するさまざまな情報や、私の見方を書いて送ってみたが、返事はない。

 二〇一一年末、この本を書き上げる前、本人は「待って欲しい」と頼んできた。私が「今がタイミングだ。新しい指導者になった金正恩(キムジョンウン)氏に、あなたの考えを伝えることができる」と説得すると「分かった。しかし、もう連絡しない」と伝えてきた。

 本書の終わりの方に、その経緯について触れている。

 確かに本の出版は、北朝鮮の世代交代という微妙な時期に当たっていた。

 そのため、一部の読者からは正男氏の安全を優先すべきだった、という批判も受けた。逆に、彼がメディアに出れば出るほど、危険は減るはずだという声もあった。それを意識してか、正男氏も日本のテレビの取材にも応じていた。

 正男氏は、金ファミリーの「キョッカジ」(横枝を意味する朝鮮語)として迫害され、西側に亡命せざるを得なくなるとの見方もあった。

 実際、父、金正日総書記時代には、異母弟が北朝鮮の外交官として、事実上の「島流し」生活を送っている。

 ただ、正男氏に関しては、本国から完全に排除されているとも言えないようだ。

 私の知っている限り、彼は「自由」を愛する人間である。

 北朝鮮と完全に切れず、かといって体制の中にも入らない。一定の距離を維持しながら、世界各地を気ままに歩き回りたいと思っている。実際そうしているようだ。

 多分、何か自分でビジネスをして、祖国に一定の貢献をし、その分自由な行動を黙認されているのだと思う。今も健康で活動しているのは間違いなさそうだ。

 私は、本の出版について「いつか理解してもらえるだろう」と楽観していた。

 彼の生の言葉をできるだけ伝えたと考えていたからだ。会った時の様子や、メールのやりとりは、できる限り、そのまま記録したつもりだ。

 本を読んだ人の反応の多くは、「正男氏は、気さくでおもしろい兄貴のような人」「北朝鮮は暗く閉鎖された国と思っていたが、この本を読んで違うことが分かった」というものだった。

 私自身、勇気付けられる思いだった。公式発表を基にした分析や解説ではない。直接北朝鮮の当事者から聞いた話としても貴重だと、自分では考えていた。

 正男氏は国を追われ、傷付きながらも、ユーモアを忘れない。痛風を患っているのに酒を思わず飲み過ぎてしまう。常に周辺には女性がいる。

 東京ディズニーランドが好きで、悪いと分かっていながら、偽造パスポートで入国して、あっけなく当局に拘束されてしまう。

 ギャンブルはやっていないと私には言っていたが、どうやらたしなんでいるようだ。いや、かなりのめり込んでいるらしい。

 そんな、人の良さというか、弱さが隠せない。かなり自分に甘い人なのだ。

 人ごとながら、これでよく家庭を維持しているな、と思うほどだ。そんな彼の実像は、多くの人に親近感を与えた。

 短文投稿サイトのツイッターで、金正男というキーワードで検索をかけてみると、今でも「電車に乗ったら、金正男がいた」などという冗談めかした書き込みを見かけるほどだ。

 北朝鮮といえば拉致問題をはじめ、ミサイル、核実験、強制収容所とネガティブな単語が次々に思い浮かぶ。暗い閉鎖社会というイメージが定着している。

 しかし、そこにも人が住み、明るい笑いがある。正男氏の存在は、そんな当たり前のことを想起させてくれたのではないだろうか。

 取材を通じて、マカオにある彼の私書箱を教えてもらっていたので、日本語版だけでなく、後に翻訳された韓国語版も送ってみた。

 結果は、なしのつぶてだった。

『父・金正日と私』は発売直後に世界のメディアに爆発的な関心、反応を呼び起こした。そのため、彼を驚かせた部分もあっただろう。

 私の妻は、私に同行してマカオに行った。彼との二回の面会に同席している。高校生のころロシア語を勉強した経験があり、正男氏とロシア語による簡単な会話を交わしている。

 正男氏の方がはるかにロシア語は達者で、会話は二、三言で途切れてしまったものの、誠実な印象を受けたようだ。

 妻は「とてもやさしそうな人だった。本が出てショックを受けたんじゃないの。あの人となら一生の友達になれたと思う」と時々思い出したように私を問い詰める。

 しかし、「はい、そうでした」とは言えない。私は、二〇〇四年に北京の空港で正男氏に偶然会ってから、関心を持ち続け、彼のあとを七年間追い続けた。

(「文庫版のためのまえがき」より一部抜粋)

文藝春秋BOOKS
2016年10月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

文藝春秋

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