ユーミンにYMOに……伝説のプロデューサーの仕事!
[レビュアー] 碓井広義(メディア文化評論家)
昨年の8月、『アルファレコード 〜We Believe In Music〜』というタイトルのCDが発売された。2枚組で38曲が収録されている。一部を挙げると、赤い鳥「翼をください」、荒井由実「海を見ていた午後」、ハイ・ファイ・セット「スカイレストラン」。さらにブレッド&バター「あの頃のまま」、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)「ライディーン」なども並ぶ。曲名を眺めるだけで70年代から80年代にかけての風景や当時の自分が甦ってくるが、それはまさに“村井邦彦の時代”だったのだ。
1945年生まれの村井は学生時代から音楽に携わり、24歳で音楽出版社を設立。作曲家、またプロデューサーとして、数多くのアルバムを送り出した。ライター&編集者の著者は、村井本人や関係者への取材を積み重ね、半世紀以上におよぶ音楽活動の軌跡を再構成している。
読んでいて興味深いのは、ラジオやレコードを通じて毎日のように聴いていた楽曲が生まれていく過程だ。中でもユーミンとの出会いとアルバム作りはその白眉だろう。彼女を支える演奏者は「キャラメル・ママ」の4人(細野晴臣、松任谷正隆、林立夫、鈴木茂)。今思うと、何とも贅沢なデビュー戦だ。「レコードはずっと残るものだから、完璧に近いものをつくっていかなくてはいけない」と考える村井は、作品はともかく、ユーミンのピッチ(音程)がバラバラになる歌い方を決して許さなかった。時間と費用を惜しみなく投入し、格闘の末に完成した『ひこうき雲』は73年に発売される。
その後、村井はYMOを構想していた細野と契約し、この画期的なプロジェクトを支援していくことになる。それは音楽プロデューサーとして、「まだ水面に顔を出さない大衆の音楽的嗜好性を敏感に察知して、誰よりも早く、それを商品として世に出すこと」に才能を発揮し、戦後の新たな音楽の流れをつくった村井を象徴する仕事だった。