【講演】遠藤周作・没後20年企画 宗教と文学の谷間で

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テレーズ・デスケルウ

『テレーズ・デスケルウ』

著者
Mauriac, François [著]/遠藤 周作 [訳]/Mauriac Fran〓cois [著]/モーリアック フランソワ [著]
出版社
講談社
ISBN
9784061975699
価格
983円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

【講演】遠藤周作・没後20年企画 宗教と文学の谷間で

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遠藤周作氏

西洋の背骨であるキリスト教を
日本の文学に根づかせるために
戦い続けた作家が積年の思索を語った
〈外国文学に見るキリスト教〉。

 実は私、紀伊國屋ホールで講演をするのは初めてなんです。もっとも、アマチュア劇団「樹座」の役者としては何回もこの舞台に立ったことがあります(会場笑)。例えばハムレットのお父さん、あの暗殺された国王なんかを演ったんです。その舞台で「外国文学におけるキリスト教」なんて真面目な話をするのは、どうも勝手が違う感じがして戸惑っています。

 今日は六回続く講演の、まずは〈序論〉のつもりです。次回以降は具体的にひとつの作品について、考えを申し上げていきたいと思っております。新潮社の講演会ですから、できるだけ新潮社が出しているもの、それも値段が安いものがいいですから、新潮文庫で出ているものをと考えていますが、意外と絶版もしくは手に入れにくい本も多くて、他の社の本を読むこともあろうかと思います。そのへん、新潮社の人に断ると、度量が広くて「どうぞ、どうぞ」と言ってくれました。読んで頂こうと思っている本の中には、私が翻訳しているものもあります。何だか申し訳ないような気がしますが、他の人の訳よりいいようなので(会場笑)。

 私が翻訳したのはフランソワ・モーリヤックの『テレーズ・デスケルウ』という小説ですが、例えばこの小説をみなさんに一行一行味わうように読んできて頂いて、この場で「遠藤の考え方はこうであるけれど、どうでしょうか」という話し方をしたいと思っています。単なる解説や講演でなく、ご一緒に勉強していきたいのです。

 私は年少の頃から曲がりなりにもカトリックの家に育って、キリスト教の色彩の強い本を読んできて、留学した時もその方面の文学を読み漁るようにしてきました。けれども、日本人ですから、どうしても〈西洋のキリスト教〉には距離感があります。ですから、向こうの小説を読む時、日本人の感覚で読んでしまいますから、みなさんに「ここはコレコレ、こういう意味じゃないか」と申し上げる解釈が間違っていることもあろうかと思います。「いや、遠藤の言うことは違う、私はこう考える」という方がいらっしゃったら、どうか遠慮したり恥ずかしがったりせずに、手を挙げて発言なさって下さい。私は導火線に過ぎなくて、みんなでテキストを読んでいきたいと思っているのです。

 ご存じのように、最近は日本でもキリスト教信者である作家が増えてきました。私が書き始めた頃は、キリスト教について書く作家は他にほぼいなかったものですから、私がパイオニアといいますか、教えてくれる人もいないままに書いてきました。今は心強いもので、三浦朱門さん、曽野綾子さんもいますし、近年では高橋たか子さん、大原富枝さん、戯曲の矢代静一さんなどもいらっしゃる。プロテスタントでは、亡くなった椎名麟三さんがおられた。みんなと一緒に仕事ができるという、一種の「精神共同体」ができたような歓びを持てるようになったのです。

 それでも、われわれが、つまりキリスト教信者である作家が、日本で小説を書く悩みは今なおあります。読者にきちんと伝達できているのか、どう書けばわかってもらえるか。小説家である以上、私たちは、少なくとも私は、別にキリスト教信者のために小説を書くのではなくて、まったくキリスト教に興味のない人にもキリスト教が嫌いな人にも読んで貰いたいと心から願っています。でも日本では、キリスト教を扱っているというだけで敬遠されてしまいます。

 ジョルジュ・ベルナノスというフランスでは非常に有名なカトリックの作家がいます。彼の『田舎司祭の日記』という名作が映画化されたことがありまして、ちょうどそれが公開された時、私は留学中でリヨンにいました。一九五一年のことです。みじめで心やさしい司祭を主人公にしたこの映画の上映館は押すな押すなの盛況で、すごい熱気の中で上映が終ると、壇上に現れた監督のロベール・ブレッソンと観客たちの間で白熱した議論が延々と交わされました。私もその議論の応酬を客席で聞いていました。けれど日本ではキリスト教をテーマにした映画など、観客からまったく無視されます。当然でありましょう。どうしたって、アーメンものというのは、日本人にとって距離感があるし、煙たくもあるんですね。今でもそんなに変化があるようには思えません。

 ですから、そういう日本にいて、私が生きるために選んだ――思想とまではいかなくても、私にとって大切な――キリスト教というものを織り込んだ小説を書く時、私が書いたことをどこまで理解して頂けるのだろうかという不安が非常に強くあるわけです。

 例えば、ある短篇で、自分の可愛がっていた小鳥が私の掌の中で死んでいく場面を書きました。その場面は、十字架に架けられて死んでいくイエスの眼であったり、私にとって非常にキリスト教的なもののイメージを絡め合わせて書いたつもりなんですが、読者には単に鳥が死んでいくとしか読んで頂けないんじゃないか。

 あるいは私に『沈黙』という小説があります。これは切支丹時代の話で、司祭が踏絵に足をかける、という場面があります。それは真夜中から明け方にかけての場面でして、最後に「こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた」と書きました。『聖書』をお読みになった方ならばわかってくださるでしょう。イエスが捕えられた後、弟子のペトロがユダヤ人の大祭司カヤパの官邸で「イエスを知っているだろう」と問い詰められます。そしてイエスの予言通り、鶏が鳴く前に三度「イエスなんか知りません」と言ってしまいます。私の小説の中で鶏が鳴くのは、『聖書』のイメージと重ね合わせているわけですが、私が知合いの批評家にそれを言いましたら、彼は「ああ、そうだったのか。僕はただコケコッコーと鳴いたのかと思っていた」と言った。別に冗談でもなく、彼は本気で言ってくれたので、ああ、日本でキリスト教を考えながら小説を書くのは辛いというか、そんなところなのだろうなと痛感したものです。

 逆に言うと、われわれが外国の小説を読む時に、同じような見落としは、どうしても起こるのではないでしょうか。

 例えばジュリアン・グリーン、アメリカ人の両親の下にパリで生まれたこの作家に『モイラ』という小説があります。神学生である青年ジョゼフが、自分を誘惑し肉慾を刺激したモイラという女性を殺してしまいます。あまりに潔癖なピューリタニズムの果てにモイラを殺したジョゼフは、死体を雪の中に埋めます。雪は霏々として降っている。われわれはこの雪を自然描写として読むべきか、あるいは、雨でも晴れでもいいのに、なぜ雪なのかと考えて読むべきか?

 あるいは、フランソワ・モーリヤックの『テレーズ・デスケルウ』の中に、「葡萄畑に夕日が射していた」といった何気ない一行が書かれてあります。われわれ日本の読者なら、葡萄畑を思い浮かべて、そこに夕日が射していたんだな、と受け取るのが当然だし、それで全く悪いことではない。しかしやはり、『聖書』をお読みになった方なら、葡萄もしくは葡萄酒が『聖書』に占めている意味をご存じでしょうし、ルオーの絵をご覧になった方は夕日の意味をお考えになるでしょう。西洋の読者ならば、キリスト教信者であれ共産主義者であれ、こういう感覚なり知識なりは代々受け継がれてきています。子どもの頃から家庭で植え付けられていますから、作家が「葡萄畑に夕日が射していた」と書いていれば、そこへ二重の意味、三重の意味を重ね合わせて読むことができるのです。モーリヤックはそのへんを計算して書いていますよ。

 この『テレーズ・デスケルウ』の最初のところに、女主人公テレーズの、「決して美しくなかったけれど、魅力がある女だった。額が広くて云々」みたいな描写があります。私も翻訳する機会がありましたから、向こうのモーリヤックの研究書などを読んでみました。それで学んだのですが、「額が広い」というのをフランス語では普通、オーhaut=高い、という形容詞を使います。私のような額ですね。それをモーリヤックはバストvaste=広いという形容詞を使っている。と同時に、これはデバステdevaste=寂寞とした、という形容詞をすぐ連想させます。つまり、モーリヤックは「テレーズの額が広い」という描写をしながら、普通使われる言葉とは違う言葉をあえて使うことで、額が広いだけではなくて孤独な女というイメージも持たせている。

 そういう二重、三重の意味を持たせる小説家の書く小説ならば、先の一文も、ただ葡萄畑に夕日が当たっていると読むべきではないと思います。「ああ、そうですか、葡萄畑に夕日が当たっているんですね」では、おそらく済まされないものがある。けれど、われわれ日本人にはキリスト教の感覚がないので、どうしてもそこまで読み取れない。

 それはジュリアン・グリーンの『モイラ』でも言えることで、自分が殺した女を雪の下に埋め、霏々として雪は降り続けているという場面も、単に「雪が降っている」と読み取らない方がいいのではないか。私も小説家のはしくれですから、そして私は特に自然描写が好きですから、よく自然描写を書きます。自然描写は登場人物の内面の反映か、あるいは内面のもっと奥にあるものの反映として、小説家は書くんですよ。もし、こういう読み方をしていけば、外国の小説に二重三重の意味が隠されていることもわかるのではないかという気がいたします。そういった部分をテキストに即して、私もみなさんと一緒に考え考えしながら読んでいきたいと思います。

「キリスト教作家」と呼ばれたくない理由

 次回は今ちょっと紹介しました『テレーズ・デスケルウ』を取り上げたいと思っております。もしこのモーリヤックの小説を読んで下さるならば、私の読み方ではありますが、みなさんにひとつ宿題を出させて頂きます。

『テレーズ・デスケルウ』の筋書は簡単で、夫を毒殺しようとして失敗した女の話です。そのため家を出て独りで生活していかないといけなくなりますが、この小説の中で、彼女は最後まで救われません。モーリヤックも「どうにもならなかった」と自己解説のような文章で書いています。

 けれど、それでも彼女が救われる可能性というのはあるわけです。その可能性を、モーリヤックはこの小説にほんの二行か三行で書いています。それも説明でなく、描写で書かれている。私の考えではありますが、「それはどこか?」というのを宿題だと思って、読んできて下さい。次回の冒頭でまず二三の方をあてて、答えて頂きます。嫌がらせです(会場笑)。当たった方には、私の本を一冊タダで差し上げましょう。そんなことをいうのは、当たらないという自信があるからです(会場笑)。どうぞ私の挑戦を受けて下さい。

 この連続講演は「外国文学におけるキリスト教」と題していますが、もちろん中世の文学も現代の文学もと全てを網羅するわけではありません。20世紀のヨーロッパにおける文学だけに限定してお話しすることになります。その現代ヨーロッパでキリスト教信者でありながら小説を書いている人たちに共通する姿勢があります。

 これは最初に申し上げた私の姿勢とも重なりますが、彼らは「キリスト教作家」と呼ばれるのを嫌がります。私もそうですから、彼らの気持ちがよくわかります。なぜかと言いますと、彼らは「自分たちは小説家だ」というわけですね。『情事の終り』『事件の核心』などで知られるグレアム・グリーンというイギリスの作家も「私はキリスト教作家ではありません。たまさか登場人物の中に宣教師や神父が出てくる小説を書く作家だと考えてもらった方がいい」と言っています。

 彼らが何故ひとしなみにキリスト教作家と呼ばれるのを嫌がるかというと、まず第一に、「私はただの小説家であって、キリスト教の宣伝とか布教とか教えの正しさの証明のために書いているのではない。私たちは『パンフレット作家』ではない」という考え方からですね。

 日本では翻訳は少ないけど、キリスト教の護教のために書かれた小説というのが沢山あるんです。私もいくつか読んだだけで思い出しもしませんが、卑俗な言い方で例を申しますと、ここに重い患いをした娘がいる。彼女を一生懸命看病する婚約者は共産主義者だったと。しかし、病に耐えながら死んでいく娘を見て彼は感動して、神の存在を感じ始めた――。こういうのがいわゆるキリスト教護教小説で、つまり「キリスト教はいいものである」と宣伝するための小説ですね。

 私たちがここで読んでいこうとするキリスト教作家たち、フランソワ・モーリヤックにせよグレアム・グリーンにせよ、あるいはジョルジュ・ベルナノスやジュリアン・グリーンにせよ、ある主義・思想の正しさの証明のために小説を書くつもりは毛頭ないわけです。普通の小説家と同じように、普通の人間を描くために小説を書いている。

 ここでパンフレット作家と言ったら悪いのですが、キリスト教護教作家の例を挙げると、日本でもわれわれの先輩たちがたいへん好きだったポール・ブールジェという作家がいました。彼の『弟子』という小説など実に巧妙なるパンフレット小説、護教小説です。今は古本屋でしか買えないでしょうが、どこかで見つけたらお読みになってご覧なさい。非常に面白い小説ですよ。

 ポール・ブールジェが育ったのは、フランスではエルネスト・ルナンとかイポリット・テーヌとかの実証主義が流行った時代です。例えばルナンの『イエス伝』というのはいろんな形で、環境から何から実証できるものは実証していくという形でのイエスの伝記です。

 そんな実証主義時代に育ったブールジェが、テーヌをモデルにアドリヤン・シクスト先生という登場人物を創っています。彼は実証主義の哲学者であり、人間の心を分析していけば全て理解できると確信しています。そして『恋愛における情念論』という本を書きます。ある日、一人の青年がシクスト先生の弟子を志してやってくる。この青年は、先生の理論を実践してみることで、理論の正しさを証明しようとします。自分が家庭教師をしている少年の姉を、先生の心理分析の通りに、嫉妬はこうして発生するとか、理論をさまざまに適応してみせ、少年の姉は彼のことを愛してしまうようになる。やがて理論が尽きたところで、彼女を根本的に裏切る結果になって、その兄に青年は殺されてしまいます。残された青年の手記を読んだシクスト先生は粛然となり、「我なくんば、我を求むることなし」というパスカルの言葉を思い出して、神の存在を思う――。こういう小説なんです。

 昔読んだから少し筋は曖昧かもしれないけど、とっても面白いんですよ。非常に構成もいい。でも読んでいて、どこか首をかしげてしまう。どこか、つまらないところがある。それは途中から、アドリヤン・シクスト先生がやがてキリスト教というものに頭を垂れるであろうことが予想されて、そのレールの上を作中人物が走っているというつまらなさが読む者の心に忍び込んでくるからです。ブールジェは決して下手な作家ではありませんので、そのへんを隠し隠ししながら書いていますから、読むに堪えないものではありませんよ。でも、どこかから隙間風が入ってくるのです。『弟子』と例えばモーリヤックの『テレーズ・デスケルウ』を較べると、歴然とした差があります。つまり、犯人が途中でわかってしまうような推理小説はやっぱり面白くありませんよね。モーリヤックの言葉を借りると、「小説家は人間の真実を書くものだ。その真実を、たとえ自分がキリスト教信者であるからといって、キリスト教の方へねじ曲げたり、作中人物の心理に嘘を書くことは許されない。作中人物は小説家の操り人形ではない」ということになります。「右向けェ右」と命じたら作中人物が右を向くような小説のつまらなさは読者に伝わるのです。ブールジェの小説はテクニックは巧いし面白いけど、左向け左と言うと左を向く作中人物ばかりなんですね。

 しかしこのモーリヤックの言っていることは正しいのだけど、現場で小説を書いている人間にはきわめて難しいことでしてね。私なんかでも、ある小説を書こうとすると腹案を練りますよ。「この作中人物はこうなる」とか腹案を持って書いていくと、どうしても右向け右とこちらが言うと、やはり作中人物は右を向くんですね。私が左向けと言っているのに、「いや、おれは嫌だ。ここで左を向くのは、人間の心理からいって嘘だ」と作中人物が宣言して、勝手にどんどん別の方向に行ってしまうような感じをもったことは、そうですねえ、私は三度か四度しか経験したことがありません。だから私は下手な小説家なのです。ドストエフスキーが『悪霊』を書いている時、スタヴローギンという作中人物が作者の思惑と違う方へどんどこどんどこ勝手に歩き回り始めたと、『作家の日記』か何かで読んだことがあります。それが本当の小説家がいい小説を書いている時の感覚なのでありましょう。モーリヤックもテレーズを書いている時、作中人物に愛情がありますから、当然彼女を孤独から救ってやりたいと思っていました。でも、どうしても人間の心理の真実を描く以上、そして彼女が作者の思惑を超えて進んでいく以上、救ってやることができず、テレーズは暗い孤独な世界にいるままで小説のページが終わってしまいます。

 モーリヤックは『テレーズ・デスケルウ』の後、続篇の『夜の果て』でもう一度、孤独から救い出そうとテレーズを書いてみたけど、やはりダメなんです。やはり彼女は作者が望んだであろう再生や光の世界へとは向かわず、闇の世界にいます。さらにテレーズの出てくる四つの短篇を書いたけど、それでもテレーズは孤独のままでした。これはポール・ブールジェと違って、モーリヤックが作中人物の自由を尊重したからです。作中人物が小説家の操り人形になっていないからですよ。ということは、モーリヤックは「小説家」であり、「キリスト教小説家」ではないという証でもあるのです。

 繰り返しになりますが、本当の人間を書く、嘘の心理は書かない、ということが大事なのです。そして、モーリヤックはこんなことも付け足しています。本当の人間を描くためには、単純に言うと〈暗い、汚れた部分〉も見なくてはいけない。小説家ならば、そんな部分へ手を突っ込まないといけない、と。キリスト教信者としての自分を優先させて、それを避けてしまうとパンフレット小説、護教小説になってしまいます。しかし小説家としての義務で手を突っ込んでいくと、キリスト教信者としての自分が壊れてしまうかもしれない。そんな形で、自分の中の〈キリスト教信者〉と〈小説家〉が戦っているのです。これはグレアム・グリーンもジュリアン・グリーンも同じ問題を抱えていたと思います。

 ただ、彼らが羨ましいのは、「葡萄畑に夕日が射していた」と書けば、その二重の意味をわかってもらえるんですね。こっちは鶏が鳴いても、「ああ、コケコッコーか」とだけ受け取られる(会場笑)。そんな異邦人の悩みを持つ私から見れば、彼らは読者への伝達の点では悩みがない。彼らの小説を読むたびに、私は「ほら見ろ、苦労しなくてすんでるよ」なんて、己の技術の下手さをタナにあげてそう思います。

 話がそれちゃいましたが、小説家の義務として、人間のすべてを直視しないといけない。どろどろした部分、罪の部分、悪の部分にも手を突っ込まないといけない。小説を書いていると、肉慾の部分、殺人の部分、嫉妬の部分などが出てこざるをえない場合がある。僕は人を殺す勇気がとてもないし、嫉妬心も希薄な立派な男ですけど(会場笑)、小説家のはしくれとして、貧しい経験を拡大し、イマジネーションを総動員して書いていきます。そうやって書いていると、凡庸な作家でも、人間の汚い部分をしたたかに味わいます。モーリヤックのような優秀な作家になると、肉慾や嫉妬など彼が罪と思うことを書いている時、彼は自分が確かに罪を犯していると感じたに違いないのです。しかし、罪を犯さなければ「人間を書く」という小説家の義務に背くことになる……。モーリヤックの葛藤は私のような小説家にもよくわかるのです。

 ええと、私ちょっと時計が……これ時計ですか?(会場笑) いま何時ですか。もうおしまいにしましょうね(会場笑)。

交響楽を鳴らしてくれるのが宗教

 今の話と通ずるところがありますが、人間の中には矛盾し合うようないろんな要素が存在しますね。そんな人間のある部分的なものにだけソロの楽器を鳴らすような、人間の一部分にだけ応ずるような宗教は本当の宗教ではないのではないか――この十年ほど、そんなことを考えるようになりました。

 例えばミッション・スクール一年生くらいの若い娘のきれいな気持ちにだけ応える宗教なら、私はやっぱり満たされません。人間の中のすべての要素、それが人間的なものであればどんなにいやらしい汚れた部分にも、オーケストラのような音を出してくれる宗教でないと私は満たされない。キリスト教が本当の宗教なら、人間のどんな部分にもきちんと交響楽を奏でてくれるはずだと思っています。

 いやらしい部分、汚い部分、矛盾する部分を持つのも人間なのだから、そんな人間を書くことこそが本当の意味での「キリスト教作家」なんだから、怖がらずに書いた方がいいと思います。しかし同時に、この矛盾した人間を書くのは何と難しいことかしら、とも思うのです。

 心理小説というのがありますね。高速撮影したように、心理を詳細に分析したり、描写していく。ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』とかラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』とか、フランスの小説が得意としましたし、日本でも女ごころの動きを描くのが巧い小説家はいます。でも私は、それではやはり満たされないのです。

 なぜなら、人間は心理だけではないからです。心理の奥に、背後に、盤根錯節のどろどろした無意識があって、そこにさまざまな心理なり記憶なりが境目もなく絡み合っています。あえてそれを無意識と呼ぶならば、カミュが『異邦人』の中で、主人公がアラブ人を撃った時の心理を書かずに、「太陽の光が目に入ってきたからだ」という外側の描写だけでやったのも、無意識を重視したからでしょう。

 しかし、ひょっとしたら人間は無意識の底に、もっと深い内面があるのかもしれない。ほかに言葉がないから、それを〈魂〉と呼んでもいいかもしれませんが、その無意識を超えた内面がおそらくあるのではないかと思うようになりました。本当に人間を描くのならば、そこまで描かないといけない。ドストエフスキーならば書けたでしょうが、私にはとても書けない。しかしその深さまで人間を描くことができれば、そこには宗教というか、神さまとか、いろんなものが入り込んでくるような気がしているのです。

 人間の心理の奥、無意識の底の世界まで描き、人間に対して交響楽を鳴らすのが本当の意味のキリスト教文学であろうと思いますし、おそらくその奥底の部分へ入り込もうと努力したのが、今日名前の出た作家たちなのです。

 先ほど『テレーズ・デスケルウ』について宿題を申し上げたけど、「見つけて下さい」と言った二行は、まさに人間の奥底の部分に触れているのではないかと私は考えています。

 これから一緒に読んでいく小説の中には、何故これがキリスト教小説と呼ばれるのかわからないものもあるでしょう。闇ばかりだとか、孤独でありすぎるとか。それはキリスト教作家が普通の小説家と同じように書きたいという思いのせいかもしれません。しかし、作中人物に救いを与えたい、光の世界に連れ出したい、という部分はあるのです。それはしばしば、ほのかに、つつましやかに、象徴的に書かれてあります。お互いに、探しっこいたしましょう。私が見つけるのが正犯人なのかどうかはわかりません。間違った人を逮捕するかもしれない。その時は手を挙げて指摘して下さい。

新潮社 波
2016年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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