山折哲雄 「ひとり」を生き抜いているか

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「ひとり」の哲学

『「ひとり」の哲学』

著者
山折 哲雄 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784106037931
発売日
2016/10/27
価格
1,404円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

山折哲雄 「ひとり」を生き抜いているか

[レビュアー] 山折哲雄(宗教学者)

「ひとり」と「個」はいかにも似ているようにみえるが、本当のところはどうも違うらしい。それを「一人」と「個人」というようにいいかえると、どうか。ともに「人」を意味しているが、それではこの場合の「一人」と「個人」は同じかといえば、どうしても違和感がのこり、しっくりこない。そもそもこの二つの言葉遣いの背景にあるものが、まるで違っているようだ。

 昔から気になっていたことだ。

 二十年ほど前、大学で教師をしていたころである。高校を出たばかりの学生たちと雑談していて、おやっと思った。その場にいたのがみんな、「ひとり」になることを嫌っていたからである。仲間は何人ぐらいがいいのときくと、三人ぐらいという答えが返ってきた。いいたいことをいい、やりたいことをやっても、それくらいが仲間同士の安定感が保たれるということらしかった。

 若者たちのあいだでは、いつのまにか「ひとり嫌い」の時代になっていたのである。

 しばらくして、「日本酒で乾杯推進会議」という会ができ、誘われて発起人の一人になった。「ビールで乾杯」にたいする稚気あふれる異議申し立てでもあったのだが、私はもうひとつ乗り気になれなかった。やはり酒は「ひとり酒」にかぎる、という思いこみがあったからである。

 ところがふと気がついて周囲を見渡すと、どの酒場どの居酒屋でも「ひとり酒」をチビチビやっている姿をみかけることがほとんどなくなっていた。大人の社会でも、どうやら「ひとり嫌い」の風潮がひろがりはじめていたらしい。

 こんどはそれに追い打ちをかけるかのように、高齢者の「ひとり暮し」という暗いみじめな世相が、「孤独死」などの言葉とともに大きく報道されるようになっていた。

 一口に戦後七十年、という。ふり返ると、はじめは何もない焼跡の「貧乏暮し」の時代だった。やがて右肩上りの経済成長がやってきて、太鼓を叩くような「景気暮し」がはじまった。ところがたちまちバブルがはじけ、世の中はいつのまにか「孤独死」と背中合せの「ひとり暮し」の時代に近づいているのだ、という。戦後の一時期、「一億総懺悔」「一億総白痴化」といった言葉が流行ったことがあるが、それにならっていえばさしずめ「一億総ひとり化」の陰々滅々の時代、ということになるのだろう。

 ところが皮肉なことにこの国では、長寿国世界第一位を達成したにもかかわらず、その異常な高齢化現象のなかで、反って「死」の不安におびえる風潮がみるみるふくらみはじめていた。死にゆく者にも看取る側にも、人間の避けがたい死の事実の前で立ちすくむ情景がひろがりはじめた。年金、医療、介護の問題をまきこんで、病院死か在宅死かと、論議が紛糾するようになっていたのだ。

 そんなときふと耳を澄ますと、天の方からかすかにきこえてくるのが、

 人はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく

という声である。「ひとり」という言葉が、重くずしんとひびくのである。

 けれどもわれわれはそんな場合、

 人は個人として生まれ、個人として死んでいく

とは、いわない。個人という言葉が口をついて出ることはまずないのだ。

 考えてみればここでいう「ひとり」が万葉集の時代から現代まで、えんえんと語りつづけられてきた「ひとり」だったということに気づく。それにくらべれば、西欧からの輸入語である個とか個人の歴史はせいぜいここ百年ぐらいのことだった。

 人間の生と死にかかわっていわれつづけてきた「ひとり」が、じつは人間の存在そのものに由来する言葉だった、ということではないだろうか。

 親鸞、道元、日蓮、法然、一遍など――、本書で私は、このような「ひとり」を生き抜いた先人たちに学び、そこから「ひとり」の哲学を導きだそうと試みたのである。そろそろわれわれも、この窒息しそうな「個」の壁を突き破って、もっと広々とした「ひとり」の世界に飛びだしていこうではないか、そんな思いをこめて、この本を書いたのである。

新潮社 波
2016年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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