南アフリカのウディ・アレン 伊藤聡

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イエスの幼子時代

『イエスの幼子時代』

著者
Coetzee, J. M, 1940-鴻巣, 友季子, 1963-
出版社
早川書房
ISBN
9784152096203
価格
2,530円(税込)

書籍情報:openBD

南アフリカのウディ・アレン 伊藤聡

[レビュアー] 伊藤聡

 世の中にはどうにも説明のつかないことが多数あり、たとえば人はなぜこうまでして性行為をしたがるのか、あらためて質問されると答えに窮する。分別ある大人が裸になって押したり引いたり、冷静に考えれば滑稽としか形容できないあの行為が、有史以来、人間社会において最大のモチベーションであり続けた事実に虚しさを覚える。わけても性行為中の、男性側の卑しい反復運動はどうにかならないものか。人類の歴史もそれなりに長いのだから、もう少し理性的に見える方法は考えつかなかったのかとおもう。

 南アフリカ出身の作家、J・M・クッツェーの新作小説『イエスの幼子時代』は、どうにも説明のつかないことにまつわるユーモラスな寓話である。読者は、登場人物たちが交わす哲学問答に笑わされつつ、日々の暮らしは、うまく説明できないあれこれで成り立っているのだと再確認させられる。社会はどうして効率的でなくてはいけないか。なぜ結婚というシステムがあるのか。人びとが性行為をしたがる理由は何なのか。

『イエスの幼子時代』のあらすじは、このようである。主人公はシモンと呼ばれる男性で、中年というよりは初老に近い年齢である。彼は過去を捨てて船に乗り、ノビージャと呼ばれる国へやってくる。シモンは、船で出会った五歳の少年ダビードと共にノビージャへ入国、新たな生活を始めることとなる。ダビードはみなし子であり、シモンは彼と暮らし始める。ノビージャは福祉国家であった。職はすぐに見つかる。職場には組合もあり、仕事中のけがで入院した際の費用をすべて負担してくれた。「学院」と呼ばれる市民講座では、授業料なしで勉強ができるばかりか、食事までもが無料で提供されている。国から補助金を受け取りながら生活している者もおり、市民の生活は安定しているようだ。さらにつけくわえるなら、ノビージャに住む者は総じて善良である。「荷役の仲間はみんな“いいやつ”だと思う。働き者で、気さくで、親切で」と主人公は考える。この小説に、豪奢な生活を享受しつつ貧乏人を見くだすような利己主義者は登場しない。誰もが身の丈にあった暮らしをしているのだ。しかし、いっけんユートピアのように見える国家ノビージャは、訳者の鴻巣友季子があとがきで述べるように「一種のディストピア小説」として読者に居心地の悪さをもたらす。この社会のいったいどこに不満があるのか。

 主人公が苛立つのは生気のなさである。ノビージャの人びとは「つましい食生活に順応する」ことを是とする。野菜やパン、うすい味つけの食事。肉を売っている店は見当たらない。人びとは胃に負担のかかる食事に興味を示さないのだ。他者との衝突を避け、恋愛をせず、性行為を無意味におもう。ノビージャの人びとにとっては、穏やかで堅実な生活こそが善だ。ゆえに旧来的な情熱や欲望のあり方を肯定したい主人公は苛立つほかない。「欲しいのは肉汁のしたたるビフテキだよ」。彼と性行為について議論をしたとある女性は、主人公にその意味を冷静に問う。

「つまり、わたしへの敬意として――侮辱ではなく捧げ物として――あなたはわたしを押さえつけて、あなたの肉体の一部をわたしの中に押しこみたい、と。それをあなたは敬意だと主張するわけね。どうなってるの。わたしには全行程が馬鹿みたいに思えるけど。あなたがそんなことをしたがるというのも、わたしがそれを許可するというのも、まるで馬鹿げてる」

 こんな調子で「どうなってるの」と詰問されれば、「おっしゃる通りです」と一礼して立ち去るほかない。主人公はこうした問いにうまく反論できない。『イエスの幼子時代』が持つユーモアは、どこかウディ・アレン作品のナンセンスを連想させる。クッツェーの哲学的な笑いはウディ・アレン的なのだ。

 ウディ・アレンは、男女関係や性をユーモラスに描くことに長けた映画作家である。「(性行為は)ピストン運動とか圧縮ドリルみたいに見えるだけで、セクシーに見えることはめったにない」(エリック・ラックス『ウディ・アレンの映画術』清流出版)と語る彼は、ほんらいロマンティックであるはずの性行為が実は滑稽だという逆説を作品に反映させている。『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』(一九七二)に収められた短編『ミクロの精子圏』では、性行為に臨む男性の脳内が軍司令部の如く描かれ、擬人化された身体の各部分(神経や器官)が、目的完遂のため一致団結する。ウディ・アレンは射出される精子のひとつを演じ、女性の体内へ侵入すべく、みずからを鼓舞する。くだらないアイデアだが、「艶笑喜劇」という映画ジャンルの存在からもわかるように、性とコメディとは相性がいい。われわれは「全行程が馬鹿みたい」な性行為に執着する愚かな存在であり、コメディアンはその愚かさを笑いに変えようと手を尽くす。クッツェーの作品には、みずからの欲望を持て余す男性が描かれることが多いが、そこで生じるみっともなさは、ウディ・アレンのようにひねりの効いたユーモアへ変換されるのだ。

 さらに主人公を悩ませるのは、同じ船でノビージャへやってきた五歳の少年、ダビードである。少年が主人公にぶつける質問は難解である。「数字は死ぬか」「なぜ他人に通じない言葉を話してはいけないのか」「どうすれば長男、次男ではなく三男になれるか」「男性は子どもにお乳をやれるか」などの問いを、おもいつくままに投げかける少年。主人公はあの手この手で少年を納得させなくてはならない。少年が巻き起こす騒動が、否応なしに人びとを行動へと駆り立て、あらたなコミュニケーションを作っていく。善人ばかりのノビージャでフラストレーションを抱え、ややもすると孤立しがちな主人公に、適度なストレスと行動理由を与え、結果として新しい道を示してしまう少年。生きる上で必要なのは理不尽だといわんばかりに、難問奇問をぶつけていく小さな子どもから、ウディ・アレンのファンなら『アニー・ホール』(一九七七)の主人公アルビー・シンガーの幼少時代を連想するだろう。「宇宙は膨張する、ふくれあがって破裂したらすべてはおしまいだ」と主張する少年は、無気力となり宿題も放棄してしまう。母親が彼を医者へ連れていくと、医者は少年に向かって笑いながらこう言うのだ。「膨張して破裂するまでには何十億年もかかる。それまでは楽しまなきゃ」。この大らかさもまたクッツェーに通じるようにおもう。

新潮社 新潮
2016年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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