世界の引き裂かれと共に 藤沢周

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ジニのパズル

『ジニのパズル』

著者
崔 実 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784062201520
発売日
2016/07/06
価格
1,430円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

世界の引き裂かれと共に 藤沢周

[レビュアー] 藤沢周

「僕のお父さんの写真を、見せてあげようか?」と言われ、絶句したことがある。四六、七年ほど前の、故郷新潟での話だ。まだ私が小学の四、五年生の頃である。

 おまえの父親ならさっきも会ったじゃないか。精肉店の気のいい親父じゃないか、と思っていたのだが、歳下の友人は部屋の本棚から何やら重厚なアルバムを持ってきて、その頁をおごそかに開いて見せてくれたのだ。

 そこには犇めいた知恵の輪のような文字とともに、不自然なほどの笑みを浮かべた大きな肖像画が掲載されていた。『ジニのパズル』の主人公が通っている、朝鮮学校の教室に掲げられていたものと同じ。金日成の肖像だ。

「どう? かっこいいでしょう」と友人は聞いてきたが、その時、幼いながらに彼の出自と日本人の友人を信頼してのカミングアウトを噛みしめた覚えがある。ただ、テレビで見ていたその顔と、新潟港を出入港する万景峰号をめぐる噂、真相不明の拉致事件が近くの海で時々起っていたことを知っていた私は、彼のもう一人の「お父さん」を、「かっこいい」とは間違っても肯定できなかった。そして、「おまえは騙されている」と喉元まで声がせり上がってきたのをよく覚えている。

 中学生の主人公ジニは、「北朝鮮は金政権のものではない。私たちは、人殺しの生徒ではない。肖像画は、ただちに排除する。北朝鮮の国旗を奪還せよ!」と叫び、教壇の壁の上に掲げられたその肖像画を外して、校舎のベランダから投げ捨てるということをやった。もちろん、ジニは、私の友人と同じで日本人ではない。在日朝鮮人の三世として、中学から朝鮮学校に通う少女である。ジニの行為はクラスメイトから見たら完全なる暴挙であり、反乱であり、狂気の沙汰であろう。おそらく、友人もその場に出くわしていたら、半狂乱になって叫び、ジニの行動を阻止したのではないか。

 ジニのたった一人のレジスタンス、「最初で最後の革命」は、教壇の壁上から見下ろし、「何を気にしている、何を見ている、何が間違いだと考えているんだ、何を根拠に間違いだと言うのだ」と問うている肖像画だけに向かっているのではない。むしろ、自分という存在証明を、外の世界が決定するあらゆる理不尽に対しての暴発なのだ。朝鮮人三世として、「誰よりも先に大人になるか、それとも、他の子供のように暴れまわるか」で揺れ動き、それを抑制して生き続けることが、アリバイをたえず自爆させては更新させる状況に追いこんでいく。在日朝鮮人三世であるということが、プラスになってもマイナスになっても意味がない、その自己の絶対値が透明になるほどの極限に身を置きながら、さらに存在の深みへと入っていくのだ。

 まだジニが私立の小学校に通っていた頃。私立の学校には制服があったから、「右翼の車を見つける度に、小学生の私は制服の中に国籍を隠」すことができた。

「私は、いつからかゲームさえするようになった。『さあ、私を見つけられるかな』そう心の中で車に向かって呟いた。まるで自分がウォーリーにでもなったかのような気分、あるいは間違い探しをさせているような気分だった。――この風景の中に、間違いが一つだけあります。さあ、どれでしょうか。何が間違いでしょうか。誰が間違いでしょうか。あなたには、その間違いが何なのか見つけられるでしょうか――。/『朝鮮人は、出ていけー。朝鮮人は、国へ帰れー』/右翼は叫び、制服の中に身を隠した私は、車の脇に立っていた男に向かって、にっこり微笑む。男は不思議そうな顔をして視線を逸らした」

 だが、中学生になったジニはテポドンが北朝鮮から発射された翌日に、朝鮮学校に通うためのチマ・チョゴリを着たまま町に出るのだ。そして、警察を名乗る屈強な男達に囲まれて、ひどい仕打ちを受ける。首を絞められ、胸や陰部を触られ、挙句の果てに「チクショー。汚いもんに触っちまったな」と舌打ちされてしまうことになる。その時に「声を殺して泣きじゃくった」。

 この「声」を殺す、という表現には、「誰かの落書き」である国境ゆえの差別という次元を超えて、チマ・チョゴリを着て目立つ「私」が、「私」という人間自身のアリバイを隠さなければならない、自己と世界の引き裂かれに直面した悲しみがこめられているだろう。

 金日成の肖像画を投げ捨てたジニは退学となり、日本を出てオレゴン州の高校に通うことになるが、生きることへの真摯さゆえに、その引き裂かれと世界からの難破のまま、やはり問題児として扱われるのだ。その彼女が日本で経験したことを回想するという形式で書かれているのが本作なのだが、これは「小説」という、フィクション化のための距離感とは違う衝迫力を持っている。第二次大戦下のブダペストを生き抜く双子の日記を描いたアゴタ・クリストフの『悪童日記』のような力と、散文では間に合わないとでもいうような心の叫びやイメージの瞬発=詩や歌詞に近いものを想起させるのだ。

「ジョンは悲鳴をあげて地面を割るように叩いた。それでも変わらず、フンコロガシは糞を転がし続けた。本当に、この世界は素晴らしい所だよ」

 ジニはホームステイ先で出会った絵本作家の女性ステファニーとオレゴン州の美しい自然によって、少しずつ世界を取り戻し、「大人」になっていく兆しを見せているが、作者・崔実は、世界の引き裂かれから覗いた、朝鮮語でも日本語でも言語化できないような深く茫漠とした「空」をも発見したはずだ。

「空が落ちてきた――ジニは、どうする?」とステファニーに問われて、「――受け入れる、空を、受け入れる」とジニは答えた。また、今はどう暮らしているか分からないが、優しく笑顔の可愛かった昔の友人にも、そんな瞬間が訪れていて欲しいとも思う。だが、書き手はまたこれから「空」を受け入れた後に続く、さらなる「空」を書かねばならない。書き続けることで、不可視のパズル・ピースを発見し、もがき、世界の鍵を提示していくことになるだろう。

新潮社 新潮
2016年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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