『綴られる愛人』 井上荒野著

レビュー

3
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綴られる愛人

『綴られる愛人』

著者
井上 荒野 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087710120
発売日
2016/10/05
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『綴られる愛人』 井上荒野著

[レビュアー] 松山巖(評論家・作家)

人生変える偽りの文通

 本長篇(へん)は実に奇妙な物語の設定で始まる。

 まずクモオという金沢に住む会社員らしき男が、凛子という女に綴(つづ)った手紙が紹介される。ところが、その手紙を読んでいるのは柚(ゆう)という女である。そして次に紹介されるのはクモオ宛ての凛子の返事だ。ただ、この手紙を読むのは航大(こうた)という魚津(うおづ)に住む大学三回生のようだ。

 つまり航大はクモオという名で、柚は凛子という名で、互いに偽って文通しているのだ。しかも柚は自分が夫から暴力を受け続け、空手の指導者である航大に夫を倒して、いや殺して欲しいと頼み、航大の方は手紙で柚の依頼を承知したという緊迫した状況だと分かる。しかも航大は計画決行のために東京へ向かうことも。

 ここまでがプロローグで時期は二月。そこから物語は一旦(いったん)、半年以上前の八月に戻る。

 航大はすべてがつまらなく人生に飽き、「何かの腹の足しになる」気で、「綴り人の会」に入る。入会するとまず会報に自己紹介文を書く。この自己紹介文を読み、気に入った相手に手書きの手紙を封筒に入れ、送料と手数料を合わせた切手と共に会に郵送する。この仕組みで本名も住所も不明のまま航大と柚は文通を始める。

 しかも航大は三十五歳の商社マンで空手の指導者だと偽り、柚は著名な三十五歳の児童文学作家なのに、二十八歳の専業主婦で夫からDVを受けていると嘘(うそ)を綴って。ただ柚は、編集者である夫に、発表する物語もエッセーもすべて決められ、自分の思う通りに執筆が出来ない。

 つまり二人共、自分の人生を変えたくて互いに嘘を吐(つ)き合う。特に航大は人生の意味を求めるために柚の夫を殺そうと決心するのだ。

 実に上手(うま)い心理サスペンスだ。読み始めは奇妙でも読者は、次第に手紙で二人の心理がどう変化するか気になって仕方なくなるだろう。

 二人が自分と周りを見つめ直し、薄い光が射(さ)す結末で、読者は彼らの行く末を考えるだろう。作者が新しい試みを込めた意欲作だ。

 ◇いのうえ・あれの=1961年、東京都生まれ。『切羽へ』で直木賞受賞。他に『そこへ行くな』『つやのよる』など。

 集英社 1500円

読売新聞
2016年11月6日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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