【講演】夏目漱石没後百年・生誕百五十年記念/為替と念書――『漱石とその時代』余話 江藤淳

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為替と念書――『漱石とその時代』余話 江藤淳


第三部刊行時に行われた、〈漱石と金銭〉をめぐる貴重な講演発掘!

 先月の二十九日に『漱石とその時代』第三部が出ました。第一部と第二部を刊行したのは昭和四十五年ですから、その間じつに二十三年という時間が挟まっているわけでして、やっと本にできたかと私は感慨無量といいますか、喜んでいるところであります。そう申しましても、私ももうこの歳ですので、ぼやぼやしていて時間が足りなくなるといけませんから、第四部をすぐ引き続いて雑誌「新潮」に書いております。今月号は第二回でありまして、あと二年くらい書いて第四部で打ち止めにしたいと思っていますが、それより長くなっちゃうかもしれない。まあ、できるだけ長くならないようにしたいと思っているところであります。

 漱石とのつきあいはずいぶん長くなりました。『漱石とその時代』よりも前、私が最初に「三田文学」に「夏目漱石論」という論文を発表したのは昭和三十年の十一月号と十二月号でございました。当時の三田文学の編集室は銀座並木通りの八丁目にあった焼け残りのビル、日本鉱業会館というビルの三階三十五号室にありまして、そんな銀座の真ん中のビルに編集室があるなんて大したものだとお思いになるかもしれませんが、ここを「三田文学の編集室だ」と言っているのは三田文学の関係者だけでした。実際は、映画館をいくつか経営しておられる先輩の事務所で、三田文学は事務所の片隅に机をひとつ借り、電話も事務所のものを勝手に拝借して、その番号を名刺に刷りこんでいるという、乱暴な時代でありました。また、財政的に次号が出せるかどうかわからない、綱渡りのような状態でもあった。しかし、そんな雑誌でも、永井荷風が創刊した三田文学という名跡は大きなものだと私は感じていました。ですから、その頃の私は英文科の三年生で、まだ学部の学生である者が三田文学に書くことになるとは夢にも思っていなかった。それがひょんなことから書くことになったのです。

 この漱石論が割合評判が良かったものですから、翌年の七月号と八月号に後半を書きまして、「漱石についてひとわたり書いたかな」と思っていたら、何ということか、これが単行本になった――というと、やはりみなさんはどんな立派な本になったのかとお思いでしょうが、私の本を出してくれたのは東京ライフ社という小さな出版社でして、ここが金繰りに困って、「印税を払わなくていい人で一冊にまとめられる原稿が欲しい」と考えたらしいのです。すると、どうやら慶應の学生で三田文学に長いのを書いたやつがいると(会場笑)。ご存じの方もおいでかもしれませんが、手元に一銭もなくても、本は出そうと思えば出せます。手形を振り出して、そして現物が出来てくれば少しは現金が入ってくる。その手形の繰りまわしのために、私の本が必要だったのだろうと思います。そうでなければ、私の本なんか出してくれるところがあるはずはない。いまだに信じられないのですが、当時はもっと信じられなかった。ただ理由はどうあれ、それが本になったことをきっかけに、気がつきましたら文芸批評を書くようになっていました。ですから、昭和三十年からもう三十八年、漱石とは職業的に付き合っていることになります。

デノミと漱石

 そんなふうに長く付き合ってきますと、新聞なんかに漱石あるいは夏目漱石という文字がチラッとでも出ていますと思わず見ちゃうんですね。文化欄や書評欄などに漱石の名前が出るのは不思議でも何でもなくて、また誰かが漱石について書いたとか、また全集が出るだとか、そういうのは職業的にパッパと見るだけなのですが、先日は驚いたことに日本経済新聞の株式欄に出ていたのです。世の中の本当の経済の動きを株式市況が反映しているとは到底思えませんが、私は新聞の株式欄を見るのが好きなんです。だいたい私は「世の中は暗くなる、悪くなる」と信じて生きている男ですから、株が下がっていると嬉しくてしょうがない(会場笑)。家内から「悪い趣味だからおよしなさい」と度々たしなめられるのですが、こればっかりはやめられない。

 数日前でありますけれども、日経の株式欄を見ていました。株なんかひとつも持っていないのですから、数字なんか読んだって仕方がないし、老眼が進んでいますから、眼は原稿を書くのに取っておかないといけないんで、あんな小さな数字を読むのに使うわけにはいかない。では何を読むかと言いますと、「大機小機(だいきしょうき)」という有名なコラムがありまして、だいたい日経の記者が書いているのだろうと思いますが、時々財界の大立者で筆がたって頭がしっかりした人がお書きになることもあると仄聞しております。匿名ですから誰が書いたか分りませんが、その日の「大機小機」に「夏目漱石」という字が見えた。これは誤植ではないかと思って、眼をこすりなおして見ましたところ、確かに夏目漱石と書いてある。

 それはいったい何を論点にしたコラムであったかと言いますと、日本はそろそろデノミをやるべきだ、というのが趣旨のようでありました。最近は円高で、このところ一ドル=百円、昨日あたりで百七円くらいでしたか、百八円、百九円に近づいたと思ったら、また円が買われて円高に少し振れる。私は為替というのも面白くてしょうがないのです(会場笑)。

 では、デノミと漱石に何の関係があるかと言いますと、これは『漱石とその時代』の第二部に書きましたが、漱石のロンドン留学に深くかかわります。この留学は漱石の生涯にとって非常に大きな事件でした。漱石は文部省留学生として、当時の高等学校の少壮教授の中から特に選抜されて、官費を以て留学を仰せつけられたのです。ロンドンに留学した漱石は、西洋文明と対決するように、渾身の力を振り絞って英文学の研究に励んだ。年額千八百円貰ったのですから、決して文部省がそうケチったとも思われないのですけれども、漱石はロンドンで貧乏しすぎています。これはなぜか。大学の図書館には、慶應義塾でも東京大学でもたくさん本があるのにもかかわらず、学者は自宅に本を抱え込む習慣がございます。大学の図書館の使い勝手の悪さのせいで――手前味噌ですが慶應義塾の図書館はなかなか使い勝手がいいのですが、それでも学者にとってはやはり書斎や書庫に本がないと具合が悪い、いつ何時必要になるかわからないからです。

 当時、熊本の第五高等学校の図書館にどれほどの本があったか分りませんが、漱石は英文学の研究は自分の蔵書でやっていました。したがって漱石はロンドンでも本を買いまくった。本をかたっぱしから読んで勉強し、細かいノートを作って、東洋における文学という概念とイギリスを始めとするヨーロッパにおける文学の概念が、どこがどう一致して、どこがどう違うのかということを考え詰めようとした。また、その本を日本へ持って帰ることが留学の大事な使命の一つであると信じていた。本代のために食うものも食えないような状態になって、コッペパンを齧りながら、公園の水飲み場で水を飲んで飢えをしのいだ。実に悲惨で悲痛な話です。

鴎外、日清戦争、金本位制

 漱石と並び称される森鴎外が陸軍二等軍医として留学を仰せつけられたのは明治十七年のことであります。鴎外は医科大学、今の東大医学部を卒業すると同時に陸軍へ入りまして、二等軍医に任官いたします。階級は陸軍中尉くらいでしょうか。彼が陸軍に入ったのは、言葉は悪いのですが、留学という餌がくっついていたからです。大学で非常によくできたはずが、卒業席次が思っていたより良くなかったものですから、大学から留学するわけにはどうもいかない。軍医になりさえすれば留学できるというので鴎外は陸軍へ入った。

 陸軍がそういった若き秀才を留学させるとなると、そこは何と言ったって明治の軍隊であります。明治天皇の直参ですから、大学出たての者が陛下に拝謁して「しっかりやってこい」とお言葉を賜ることになります。二等軍医という、とても宮中に上がれる身分ではないような者がそれだけの恩恵に浴して、勇躍してドイツに行った。鴎外が帰ってきたのが明治二十一年。漱石がロンドンに留学したのが明治三十三年で、帰ってきたのが三十六年一月二十三日。神戸港に着きまして、神戸から東海道線で東京へ戻ってきた。すると、裕福だったはずの奥さんの実家が零落していて、奥さんは着物を着破っていた。漱石は漱石で、ロンドンで勉強しすぎて、お金がなくて、コッペパンしか食べられなくて、ノイローゼになって、きりきりしていた。そこで漱石の家庭ではひと悶着あったのですが、そのへんのことは『漱石とその時代』第二部に書いてありますから、ご覧になった方もおられると思います。

 鴎外の方は明治十七年からドレスデン、ミュンヘン、ライプチヒ、ベルリンと四か所で修業し、ベルリンならプロイセン、ドレスデンならザクセンのドイツ人貴族たちと対等に付き合い、華やかな生活を送って帰ってきている。陸軍省は二等軍医に対して年額いくらの留学費用を出していたのか、それに対して文部省の年額千八百円というのは多かったのか少なかったのか。私は第二部を書いている時、どうも文部省はケチであって、陸軍省というのは軍事予算を使っているから余裕があったのだろうと思っていました。しかし明治十七年から二十一年当時の陸軍なんて、小さな軍隊なんです。戦争を一度もしていない、外征をしたことのない軍隊です。そして軍人の給料というのも、いつもオーバーヘッドになりますから、できるだけ少ししか払わないでおこう、というのが明治政府みたいな貧乏な政府のやり方なのです。すると、なぜ鴎外は留学先であんなにカネがあったのか、なぜ漱石はあんなに貧乏だったのか、そこがよく分からない。

『漱石とその時代』では、鴎外はこんなに豊かな留学生活を送ったけど、漱石は悲惨だった、なんてことは書きませんでした。白状しますと、知ってて書かないんじゃなくて、よく分からなかったから書かないことというのは沢山あるんです。ところが数日前、「大機小機」を読んで、これがピタリと分かった。みなさん、なぜだかお分かりになりますか? 問題は株ではないんです、為替なのであります(会場笑)。

 明治四年に円が日本の通貨になりまして、この年、円の金貨が初めて鋳造されました。この時の円金貨の金含有量はUSダラーの金含有量にほぼ匹敵するものであった。だから明治四年現在、一ドル=一円が成立する状態であったわけです。ただその時、日本は金本位制を採用しておりませんでした。金銀複本位制なんです。日本というのは面白い国でして、「佐渡の金山、石見の銀山」というように、江戸時代を通じて東日本は金本位制で、西日本は銀本位制だった。

 日本がいつ金本位制を採用したかというと、明治三十年です。今で言えばIMFにあたるシステムに加入したのですが、当時このシステム全体を仕切っていたのは大英帝国です。イギリスのポンドを基準とする金本位制が世界経済の決済システムを作っていた。そこへ日本が遅ればせながら参入する。そこで、日本銀行とイングランド銀行の間で金のエクスチェンジが行われるのですけれども、その基になる正貨準備がある程度ないと決済ができなくなりますから、金準備が必要になってくる。その金準備がどうやら整ったというので日本は金本位制へ移行できたのですが、これがどうして整ったかというと、日清戦争に勝ったからなんです。

 明治二十八年、日清戦争に日本が勝ちまして、台湾が日本の領土となり、遼東半島の租借権が日本に来て、清国は二億両(テール)の賠償金を払うということが下関条約で決まりました。事実、二億両は清国政府からイングランド銀行に預託されるという形で日本のものになっています。この二億両はすべて金塊であります。これだけの金準備があれば金本位制に入れるというので、明治三十年に日本は国際為替システム・金融システムの中へ自己を位置せしめた。そして、この時の為政者がなかなか頭が良かったのか、一ドル=一円のレートを維持すると日本が非常に不利だ、円安の方が輸出がしやすいというので、一ドル=二円に切り下げをやったのです。つまり明治三十年に円は、対ドルで言えば半額になった。これが秘密のもとなのであります。

 明治十七年から二十一年、基本的に一ドル=一円の円を支給されてドイツへ渡った陸軍省留学生森林太郎二等軍医は、一円持って行けば一ドルのものが買えた。だから留学費用でドイツの貴族におごったり、馬車を雇っていかないといけない舞踏会には馬車に乗り、大礼服を着て出かけることができた。しかし明治三十三年に留学した漱石の場合、一ドル使おうと思ったら二円必要だった。年額千八百円貰っていても、鴎外の時の九百円分しか留学費がない。

 なるほど、為替が噛んでたかと、ようやく分かったわけです。その後、為替がどうなったかと申しますと、第一次世界大戦で金本位制が一旦休止しまして、その後復活して、日本も昭和五年でしたか、浜口雄幸内閣の時に復帰するんですが、これが大不況と重なったので浜口内閣は怨嗟の的になりました。日米開戦の前、対日経済封鎖の話題があった頃でしたでしょうか、私の父が銀行員だったものですから、小学生だった私が親父に「円とドルはどうなってるの?」と訊きましたら、「円は安いんだよ、一ドル=四円だ」と言った。私は子どもだったものですから、「一ドルと四円なら、四円の方がいいじゃないか」って答えて、親父に「ばかっ。だからお前は頭が悪いんだ」と怒鳴りつけられたのを覚えています。

 つまり、明治四年に一ドル=一円だったものが、明治三十年に一ドル=二円に、昭和十五年頃には一ドル=四円になっていた。ここで話を日経新聞のコラム「大機小機」の論点に戻しますと、匿名の筆者はこんなことを書いていたのです。「明治開国以来、日米開戦まで円は四分の一に下落した。そして戦後は、固定レートとして一ドル=三百六十円、実勢レートとしては四百二十円くらいだった。今は一ドル=百七円、うっかりすると百五円くらいになる。つまり戦後五十年足らずの間に円は三・五倍強くなった。明治四年から日米開戦までに四分の一に弱くなった。このことを考えれば、一ドル=一円という明治創業の時代に戻ってデノミをやるべきではないか。夏目漱石がロンドンに留学した頃は云々」と。

 私はこのコラムを偶然に読みまして、なるほど漱石の留学費用というのは鴎外の半額だったんだ、文部省が陸軍省よりケチだったならば半分以下だったかもしれない、それは苦労しただろうな、とつくづく思いました。ロンドン留学の貧乏暮らしが日本の大きな対外為替の変動と結びついていたと、思いもよらぬところから教わったわけで、それくらい伝記作者というのは知らずに書いているものなのです。

カネにこだわる人

 当時海外に出ていた日本人の誰もが避けられなかった為替の変動を知らずにいた伝記作者がこう言うのもおかしなものかもしれませんが、文学者を論じる時に、やはり経済生活というのは非常に重要なものだと思っております。この作家の経済生活はどんなものだったか、所得税を払っていたかどうかなどは、きわめて大事な点です。

 二十三年前、『漱石とその時代』第一部第二部を書いている時には、漱石が苦労したロンドン生活の真の原因が為替レートだとは気づきませんでした。その頃、まだ私も若うございまして、どこにも勤めずに筆一本で暮らしておりましたが、前借や何かもして、金銭的に苦労しながら書いていました。その後、大学の教員になって俸給を得るようになって一息ついたら、今度は大学での雑用が多くなって、第三部がなかなか書けないまま今日に至ったという事情がございます。還暦になりまして、ワン・ラウンド終わったぞ、これから何歳まで生きられるか、あとはどんな仕事ができるか、そんなことを考える年齢になると、経済生活でもいろんな体験を積んできておりまして、そうなるとますます作家を論じる時に経済生活は大事なことだと思うようになります。今日ただいま暮している人間の主義主張、ものの感じ方などは、経済生活によって大きな差異を生むだろう。簡単に言えば、選挙の時、何党に投票するかに出てくるでしょう。文学者は文学的表現をしているわけですから、その表現と経済生活は深い関係があると思わなければならない。

 そして、漱石はお金のことに対しては非常に几帳面と言いますか、細かいし、こだわる人です。こだわりという言葉は今はいい意味に使われているようで、「こだわりの日本旅館」「こだわりの美人女将」(会場笑)なんて宣伝文句になっていますけれども、こだわりというのは漢語で言えば「拘泥」ですから、あんまりいい意味であるはずがない。これはこの頃のおかしくなった日本語の一例であります。

 さて漱石はカネにこだわる人でした。明治四十年三月に東京朝日新聞に入社しましたが、いまの朝日新聞と違って、まだ小さな新聞社です。親会社の大阪朝日新聞社は明治三十九年度下半期には実に七千万円以上の収益をあげておりますが、東京朝日新聞社は創業以来一度も黒字になったことがないという新聞社でした。赤字はずいぶん小さくなっていましたけれども、三十九年下半期にも七千百円の赤字を出している。大阪朝日新聞は、これからはきっと東京が政治経済の中心になっていくからというので、子会社の東京朝日に笊で水を汲むような感じでカネをつぎ込んでいた。その東京朝日新聞に漱石は月給二百円、盆と暮れに少なくともひと月分のボーナスを出すという条件で入社したのです。

 入社後、最初に書いた小説は『虞美人草』ですが、この連載小説の欄を誰に書かせるかは社会部長が決めていた。当時の社会部長は渋川玄耳(げんじ)です。渋川は元陸軍の役人でした。軍人ではなくて文官です。今の中央大学の前身である東京法学院を出て、熊本の陸軍第六師団の法務官をしていました。俳人でもありまして、五高時代の漱石とは俳句仲間だった。文章が巧いので朝日新聞に請われて、漱石に先んじて入社し、まだ三十五歳で社会部長になります。渋川が小説記事を書く小説記者を誰にするかという権限を持っていました。漱石はその下にいた一介の小説記者であり、『虞美人草』は小説記事なのです。今、岩波から全二十八巻別巻何冊とかいって漱石の全集が出て、菊判の箱入りハードカバーでうやうやしく飾ってあると、文豪が書いた大作品だとお思いになるでしょうが、漱石はそんなものを書いていたのではない。漱石は小説記事を書いて、それで月給を二百円もらっていたのです。

 漱石が入社してまだ日が浅い頃、渋川に出した手紙が岩波の全集に入っています。それを読みますと、朝日の社員は所得税をどう誤魔化していますか、これまでは役人だったから――国立大学の教官ですからね――誤魔化しようがなかったけれども、これからはみなさんがなさっているのと同じようにしたいと思う、と訊ねる内容です(会場笑)。むろん税金は不愉快なものだからできるだけ節約したいというのはわれわれ共通の心情で、その証拠に税金を上げようとする内閣は必ず苦労する、潰れる。だから、漱石も人の子か、所得税を誤魔化したいか、なるほどなるほど――とは思いますが、何となくいじましい感じがしないでもない。こんな漱石に対して、渋川は法務官――軍法会議をやるのが仕事――だった男ですから、税法に背くなんてどういうつもりだと一喝したようです。渋川は部長だけれど月給百五十円で、漱石が二百円もらっていることは当然知っている立場ですので、俺より五十円高い給料をもらいながら、何だお前という気持ちもあったかもしれない。その玄耳の手紙は残っていないのですが、漱石が平謝りに謝って、青くなって書いたような返事は残っております。あまり叱られると『虞美人草』が書けなくなるので、どうか許して下さい、と(会場笑)。

「余りに功利的にて無責任」

 だいたい、この頃の漱石は評判が悪いのです。当時、「東京二六新聞」という新聞がありました。秋山定輔という政治家が自ら社長として出していた反政友会の新聞です。文芸記事もときどき出るのですが、そこに「文科大学夏目講師を失ふ」という匿名の投書が載った。大学があんまり給料安いから、夏目さんはすばらしい先生で、情熱があって面白い講義をしていたのに、新聞社に入っちゃった。大学当局の不明を如何とす、という趣旨です。

 ちなみに申しますと、漱石が東大教授を棒に振って朝日新聞に入ったというふうに世間へ伝えられておりますが、これは嘘であります。彼は一度も東大の教授になったことはありません。ちょうど朝日の話が決まりかけた頃に、教授昇進の内示のそのまた内示みたいなのがあったんですけれども、彼は東京帝国大学文科大学の講師です。専任講師として年俸八百円を得ていた。それから第一高等学校講師を兼ねていて、こちらが七百円。併せて年に千五百円ですが、それでは足りないというので明治大学高等予科で英語を教えて、ここでは月に三十円の講師給を得ていた。漱石が一番なりたかったのは一高の教授でしたけれども、先ほど申し上げたように帰国したら奥さんが着る着物もろくにない、子どもたちも垢じみたものを着ている、住むところもないという状態でした。当座をしのぐために退職金が必要だった。それで五高の教授を辞めて退職金を得て、熊本を引き払い、駒込千駄木町五十七番地に『猫』を書くことになる家を借りた。留学中は本ばかり買って、奥さんは高級官僚のお嬢さんですから、実家に預けておけば面倒見てくれるから一銭も要らないと安心していたら、お父さんが役人を辞めたり、株に手を出したり、騙されたりして零落してしまった。明治の人はよく騙されるのです。平成の人も騙されるでしょうが、明治の騙され方は初等数学的に騙される。それで漱石は東京で職を探し、まず一高の講師になり、次に文科大学の講師になった。

 話を戻しますと、「大学に見識がないから夏目講師を失った」と新聞に出ました。世の中の評判というのはおそろしいもので、そういう純真な漱石ファンの意見も載るんですが、これは必ずやリアクションがあるぞと思って新聞を見ていきますと、これがやはり出るのです。

 先日そんな投書があったけれど、文科大学幹部に聞いてみると、夏目というのはとんでもないやつだと。当時の大学は九月に始まって六月に終わります。西洋の大学と同じであります。というのは、お雇い教師をヨーロッパ、アメリカから連れてこなければいけないので、向こうの大学の年度と同じにしていた。それくらい日本は文化的後進国だという自覚が強かった。漱石は三月いっぱいで大学を辞めました。今の感覚だと当り前に見えますが、当時とすれば、まだ四月、五月、六月とあるのに、学生をほっぽりだして辞めてしまった。どういうことだ、無責任じゃないかと新聞に載った。しかも、講師は普通年俸二百円だ、それを七百円も――と新聞には書かれていますが実際には八百円――もらっていながら、足りないと言って辞めてしまう。だいたい、熊本の五高へ復職するのが筋なのを、嫌だ、東京で勤めたいと迷惑をかけたのに、恩知らずだ。「余りに功利的にて無責任」と書かれた。それが朝日新聞に入社した頃の漱石に対する世評だった。

 もちろん、漱石を持ち上げる者はいた。朝日新聞は高給をもって抱えたのだから、持ち上げるに決まっている。のちに岩波書店は、古本屋だったのが『こころ』を出すことで、それを取掛かりにして今日の財をなしたのだから持ち上げて、未だに専有物みたいにしてやっている。しかし、漱石は持ち上げられたままの人かというと、そうじゃない。漱石の実像を見ると、ロンドンでは為替のおかげで苦労し、帰国してからもいろんな事情があって苦しんできた。私は漱石の味方ですから、「功利的にて無責任」なんて書かれると、「何だこの野郎」と思う。しかし漱石が、年度途中で学生をほっぽりだして、卒業論文も読まずに、高給で小説記者として新聞社に雇われたのは事実です。さらに漱石は、大学はつまらないところで、いつも犬が鳴いてうるさくて、いい講義ができなかった。図書館で研究しようとしても、へらへらと職員が声高に話をしている。学長に恐れながらと訴えても、取り合われなかった、講義がまずかったのは大学のせいだ。朝日への「入社の辞」で、そんな後ろ足で砂をひっかけるようなことを書いている。これは不徳義漢と思われても仕方がない。こうした事実は事実としてやはり知っておかねばならない。だからといって、漱石の文学の品が悪くなるということではない。

「不実不人情に相成らざる様致度存(よういたしたくぞんじ)候也」の謎

 そもそも、なぜこの人はカネにこだわったのか。これには深いわけがある。漱石という人は日本で初めて学校教育をうけた世代です。浅草の戸田学校という小学校に入学したのは明治七年でした。しかし、当時の書類をいくら調べても生徒の名前に夏目金之助という生徒はいない。誰がいるかというと、塩原金之助という生徒がいる。なぜ夏目金之助が塩原金之助なのかというと、むろん漱石が養子にやられたからですが、これは並の養子縁組ではありません。漱石の父、夏目小兵衛直克の町方名主仲間で四谷太宗寺門前の――太宗寺は新宿二丁目に今もあるお寺です――名主であった塩原昌之助に子どもがいないというので、漱石は二歳にして養子にやられます。昌之助の父も小兵衛直克のやはり名主仲間でありまして、早く亡くなったものですから、昌之助は牛込馬場下横町の夏目家で漱石の兄さんたちと一緒に暮したこともあるという、夏目家と縁の深い人でした。

 この昌之助という養父は、明治になって世襲していた名主制度がなくなり、名主の責任と利権を失って、東京府庁の吏員になっておりました。明治四年に戸籍法が制定され、近代的な最初の戸籍である壬申戸籍が出来た時、吏員ですから戸籍を変えるのはお手の物で、金之助を実子として登記します。のみならず、明治七年には改変され、何と戸主を金之助にしちゃった。戸籍を見ると筆頭人は夏目金之助とあって、養父養母が実父実母として二番目三番目に名前を連ねている。昔は商売が戸籍に書かれていたのですが、金之助の商売は「雑業」と書いてある。そりゃそうでしょう、満七歳の金之助には雑業以外、何もできやしない(会場笑)。それから、『町鑑東京地主案内』という、誰がどの土地を何坪持っているかがわかる不思議な本があったのですが、それには浅草寿町十番地に塩原金之介が――スケの字が違っていて助でなく介になっていますが――五十六坪持っていると出ている。おそらく戸主金之助の名前で、昌之助はカネを借りたり不動産取引をしたりしていたのでありましょう。そのままずっと塩原金之助で行けば、塩原漱石になっていた――かどうだか、それはわかりませんけれども。

 塩原金之助がまた夏目金之助になったのは明治二十一年、高等中学を卒業しかけた頃です。金之助が戸主になった頃、皮肉なことに養父母の仲が悪くなり、夫婦別れすることになりました。原因は、昌之助にいい女ができたからで、相手は日根野かつさんという旗本の後家さんでした。士族の家産を奪って産業予備軍に組み入れようとする「家禄処分」という措置ができまして、頼る者のないかつさんが「これからどうしたらいいか」と役所へ相談にきた。昌之助とすれば、これは様子がいい後家さんがきたと、相談にのるうち、男女の仲になったのです。それで家庭崩壊しまして、漱石は夏目本家へ戻るの戻らないのと悶着になり、結局夏目家へ帰るという民法上の措置が取られたのが明治二十一年で、何と漱石は夏目家に二百四十円で買い戻されています。頭金百七十円、残金七十円は月賦で払うということになった。ちゃんと証文が残っています。これは非常に大きなことですよ。人権とか何とか流行りの概念でいうと、とんでもないことだ、人身売買じゃないか、あの漱石が人身売買の対象になったのかとなるけども、これは明治の慣行で、地域によっては今でもあることかもしれない。

 大事なのは、こういう民法上の人間関係は、ちょうど為替や所得税などが社会生活を営む者の基本的な要件であるのと同様、人間の基本的要件だということです。これは作家であろうが作家でなかろうが、よけて通れないものです。法律がどう変わろうと、誰の子で、誰に預けられて、どういう形で扱われたかというのはものすごく大切なことにならざるをえない。それはその人間にとってどう生きるか、どう死ぬかということに関わることです。したがって、お金のことというのは漱石文学の根源に触れることなのです。

 金之助が夏目家に復籍した時、塩原昌之助もさるものでございまして、父親の夏目小兵衛とではなく、金之助と直に念書を取り交わしました。「養育料として金弐百四拾円実父より御受取の上私本姓に復し申候、就ては互に不実不人情に相成らざる様致度存候也 明治二十一年一月 金之助 塩原昌之助殿」と書いたのが残っている。この、不実不人情に相成らざる様致度、とはどういうことか。

 これは二百四十円というのは何か、という問題になってきます。二歳の時に養子に行ってから、明治九年に昌之助・ヤス夫婦が離婚するまで七年間の養育費なんです。このことは昌之助と小兵衛が交わした覚書にはっきり書かれています。どういう計算かはよくわかりませんが、二百四十円で七年間のことは処理されている。ところが、明治九年以降二十一年までの間、漱石が一体どこにいたかよくわからないのです。普通は夏目家に戻っていると思われています。初めは東京府第一中学校、いまの日比谷高校に少し通いますが嫌になって、二松学舎という漢学塾にかわって、それから今度は成立学舎で英語を習い、第一高等中学と名前の変わる大学予備門に入学した。帝国大学文科大学に入った時はもう夏目に戻っていますが、第一高等中学上級生になるまでの間、その学資を誰が出して、塩原金之助はどこに住んでいたか。漱石自身がぽつんぽつんと書き残している中から、どこにいたかは『漱石とその時代』第一部に推定しうる限りのことを書きました。

 ところがこの度、第三部を書いておりました時、関荘一郎という人が漱石の亡くなった翌年の大正六年、「新日本」という雑誌に「『道草』のモデルと語る記」を発表していることを知ったのです。『道草』というのは漱石が最後に完成した小説ですが、その中には、養子にやられた先のこと、養父母が夫婦別れして、養父の愛人が後釜に座ったこと、連れ子の娘がいたことなどが書かれてある。漱石は死んじゃったけど、あんなに悪く書かれたんじゃあ浮かばれない、というので、反論めいたことを漱石より長生きした塩原昌之助と二度目の妻のかつが関荘一郎にこもごも語っております。それを見ると、明治九年以降も、漱石は塩原家にいたり、急に現れて小遣いをせびったり、昌之助とかつを追いやって級友たちとすき焼きパーティをしたりしていたらしい。つまり「不実不人情に相成らざる様」というのは、この時期のことについてはまだカネをもらってないぞ、明治九年までの分はもらったけれども、未払い分があるぞという意味なんですね。そして有名になった漱石のもとにその塩原昌之助が突然現れるところから始まるのが『道草』です。

 ですから、漱石にとってお金というのは大変重要な意味を持っている。お金が単なる意味欲望の対象ではなく、人間関係の一つのシンボルであり、そして時代そのものの現れでもある。そのような漱石の実像を、私はできるだけ正確に辿りながら『漱石とその時代』を完成したいと思っております。

(於・紀伊國屋ホール/1993年11月12日)

新潮社 波
2016年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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