『猫のお化けは怖くない』
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母・百合子を思わせる清潔感 亡き愛猫を偲ぶフォトエッセイ集
[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)
人はどんなときにじっと動物を見つめるのだろうか。この本を読みながらしばしそんなことを考える。
著者のこうしたフォトエッセイ集はつぎつぎに出版されているが、その多くは猫が主役だ。でもこの本では、愛猫「くも」があの世に行ってしまったためか、登場するのは猫ばかりでもない。そのかわりに著者は、白鳥、雀、台湾リスなどと出会い、それらをじっと見ている。もちろんヘンな人間ともしばしば出会う。痴話ゲンカにまきこまれたり、病院で手術を受けたりもする。
写真家だから文章も写真のようだ……などと言うのは陳腐だけれど、たしかに「レンズに隔てられた感じ」があるのだ。対象にべったりつかない。感情移入がない。冷たさを感じるくらいにあっけない。これをわたしは長らく、著者の母である武田百合子ゆずりの文体だと信じてきたのだけれど、いま読みくらべてみるとそんなに似た文章でもなかった。しかし確実に血がつながっている印象だ(さらに言うなら、百合子を経由して父泰淳ともがっちりつながっている)。百合子も著者も、その文体から「女」を感じさせないせいか。そしてさらに言うなら、「人間」であることにも安住していない気がする。
動物は、われわれ人間とは異なる世界認識や掟のなかで生きる。基本的に動物は「あちら側の住民」であり、だからこそ、たまさか気持ちがつうじたり話がわかったりすると特別に嬉しいのではないか。著者の文章のなかで動物は、人間にじゃれたりなついたりはするが、けっして人間の期待どおりに動いたりしない。この、厳しくてさばさばした関係を描く文章が、つまり百合子ゆずりと感じられるのだろう。
自分はこの世の中と仲良しであると誇るようなエッセイが、世にはあふれる。そのなかで著者は、どこにも誰にも溶け込まない、「レンズの反対側にいる自分」を見せてくれる。この清潔感がたまらない。