誰のものでもない風景に向けて 藤井光

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壁抜けの谷

『壁抜けの谷』

著者
山下, 澄人, 1966-
出版社
中央公論新社
ISBN
9784120048753
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

誰のものでもない風景に向けて 藤井光

[レビュアー] 藤井光

 人と人とのあいだには、何かがある。その何かがあるからこそ、ある人とべつの人のあいだには距離が生じ、ある人はみずからをべつの人と区別し、「ぼく」や「わたし」という言葉を発することができる。その意味では、「あいだ」にあるのは壁だと言ってもいい。だが、そこにあるはずの壁が、実はないのだとしたら?

 もちろん、日常は壁を前提として組み立てられているのだし、我々の誰もそれから逃れられはしない。しかし、物語は壁を抜けることができる。そのとき、物語という空間で何が起きるのか。山下澄人による『壁抜けの谷』は、そんな問いを絶えず突きつけてくる。

 壁抜け、と聞けば、即座に思い出されるのは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』であるかもしれない。あるいは、マルセル・エイメ原作による演劇『壁抜け男』であるかもしれない。しかし、僕の乏しい文学的経験から考えるに、本書により近いのは、サミュエル・ベケットの小説群だと思われる。徹底して自己を解体する意志と、そこから生まれるユーモアの組み合わせとして。

「ぼく」は久しぶりに会った旧友の長谷川が、実はそのときすでに死んでいた、という怪談めいたエピソードを交えて立ち上がる。その後の同級生たちとのやり取りを通じて、長谷川の暮らしぶりが明らかになってくる……はずが、長谷川をめぐる「ぼく」の記憶はひたすら輪郭が曖昧になっていく。死んだ男は誰だったのか、その男について語っている自分は何者であるのか。

 語っているのは誰か? これは小説にしばしば顔を出す、根源的な問いであると言っていい。語られる者と語る者は、それが同一人物であれ(あるいはそれがゆえに)、語る行為がどの次元からなされているのかという問いを喚起する。

 何かが終わったあとでおのれを振り返るという行為は、いやおうなく死に接近していく。完全なかたちで振り返りがなされるのは、すべてが終わったあと、つまりは死を経験したあとだからである。ある意味では、語る行為それ自体が、死者に近い場所でなされる営みなのだとも言える。人は死ねばいなくなるが、記号はその後も「そこにある」ことを前提として現れるからだ。記号となった「ぼく」は、その空虚さがゆえに小説のなかを漂いつづける。

 長谷川とは誰だったのか、武藤と佐伯は別々の人物なのか同じ人物なのか。自他の壁が現れるそばから消滅していく一方で(あるいは、それがゆえに)、小説における人と人との関係は、成立したかに思えるそばから崩れていく。とくに他者との性的関係は、関係を取り持つ両者が誰であるのかが分からなくなっていくことにより、すべてがあやふやになっていく。ぼくはミサとセックスしたのか、していないのか。吉井とセックスしたのか、していないのか。吉井・翠・カエデという三代の女たちは、誰との関係とともに現れるのか。絶えずつながり、絶えず切断される関係は時系列を混乱させ、他者という足場を与えてはくれない。

「ぼく」が関係を持ったのか持たなかったのか分からないまま、語りの視点は、今度は女性の側にいる「わたし」に移動する。「ぼく」から離れた記憶は、光景は、「わたし」の語りと重なり、母と娘の関係、そして武藤との関係を軸に動き、そしてやはり輪郭を失っていく。やがて、その二人の語りは合流し、渦巻いていく。それでも、語りの中心は不在なままだ。

 記憶は、誰のものでもなくなり、ただ浮遊していく。それが誰に属するのか、記憶にある行為が実際になされたのか、それすら定かではない。確実なのは、その記憶が言葉として発せられたという事実、そしてそれがすぐに変容していくという事実のみである。言葉は、口にされたその瞬間に、「ぼく」からすれば違和感だけが宙に漂い、あるいは「わたし」には、誰か別の人間が発したもののように感じられる。

 登場人物からペットに至るまで、その名前はなんだったのか、誰がつけたのか、語り手は異常に執着する。まるで、名付けという行為が、その対象と行為者の関係を確定し、存在を保証してくれるかのように。もちろん、それが報われることはない。ジョンという犬は、ルルという猫は、誰がそう名付けたのかは分からない。死ねば犬はオオカミに、猫は虎になると語られるその二匹は、属性すら定かではない。

 いくどか、小説には「客観性」が登場するかに見える。「太陽はずっと真上にある。ぼくは相変わらず荒野にいる。犬を見る。犬もぼくを見る」。犬がもはや当てにならなくとも、太陽と地球の距離である「149,600,000キロメートル」という数字には、その根拠を疑う理由などないように思われる。

 しかし、そうした基盤もすぐに崩れていく。太陽との距離には「約やろ」というツッコミが入り、さらに、その距離がゆえに生じる、光が地球に届くまでの「八分間」というずれが、さらに現実を揺さぶる。自分が「今」として経験しているはずの光が、八分前の光であることにより、「今」は「今」ではなくなり、八分間の空白を抱え込んだものになる。その空白は、自己は自己であることを許さない。

 すべてが肯定と否定の間を行き来し、重ね書きされていく。では、何が残るのか? 誰にも属さない、人を離れたところにある風景だろうか。その「風景」とは、単なる人間の不在という山里でもなく、人がそこにいながら、人であることをやめて存在する「谷」のことだろうか。一人称小説として始まった『壁抜けの谷』がたどり着こうとするのは、無人称小説としての物語なのだろうか。

 かといって、この小説は求道者めいた悲壮さとは無縁である。人が人としての基盤を失う「谷」には、虚無や恐怖ではなく、笑い声が響いているのだから。ベケットばりの破れかぶれなユーモアが読み手を不意打ちする自在さは、物語全体のリズム感を決定していると言っていい。

 犬が出す音「スゥワンカモンオ」が、「坂本」と言っているのだと気づく瞬間。

あるいは、「犬」「犬」「犬撃って」「犬撃って」「どない」「どない」「すんねん」「すんねん」と、ほんのわずかなずれを伴って同じツッコミを口にする地元の男AとBのコンビ。またあるいは、もはや誰と誰の間で交わされているのかも分からない、こんなやり取り。

「でも息してる」

「死んでも息するがな」

「え」

「知らんかったやろ」

 これは僕も知らなかった。

新潮社 新潮
2016年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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