物質への歓待の身振り 渡邉大輔

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

映画という《物体X》 フィルム・アーカイブの眼で見た映画

『映画という《物体X》 フィルム・アーカイブの眼で見た映画』

著者
岡田秀則 [著]
出版社
立東舎
ISBN
9784845628636
発売日
2016/09/23
価格
1,980円(税込)

物質への歓待の身振り 渡邉大輔

[レビュアー] 渡邉大輔(批評家・映画史研究者)

 ここ数年、映画の世界で「フィルム・アーカイブ」という言葉をよく耳にするようになった。これは、その名の通り、過去、膨大に作られてきた多種多様な映画フィルムの収集・保存事業を指す。知られるように、一九世紀末に発明された映画という複製メディアは、長らくフィルムをその記録媒体としてきた。そして、そのアーカイビングに対する関心は、国内でも主に九〇年代以降、日増しに高まっている。例えば、つい最近も、小津安二郎の戦前作品の欠落部分が新たに発掘されたことが社会的ニュースとなった。これもまたそうした動向の一端に他ならない(この点は高槻真樹『映画探偵』も参照)。

 本書は、国内のフィルム・アーカイブの公的拠点である東京国立近代美術館フィルムセンターで二十年近くにわたって、第一線で映画の収集・保存・上映活動に従事してきた著者が、このフィルムという「物質としての映画(文化)」について、折に触れ書いてきた文章を中心にまとめたエッセイ集である。

 欧米では戦前から芽生えていたフィルム・アーカイブの理念が、日本の映画界において定着し出すのは(川喜多かしこらの先駆的業績はあれど)おおむね八〇~九〇年代以降のことである。この時期に起こった、フィルムセンター火災や家庭用ビデオの普及といった動向が映画(フィルム)保存の文化的意義を広く認知させ、その後、国立機関のみならず、地方自治体や個人レベルでアーカイブ活動が徐々に広まっていった。

「フィルム・アーキビスト」たる著者が本書の中で一貫して映画に対して示す「倫理的」とも呼べる姿勢が、「すべての映画は平等である」という唯物論的なリベラリズムだ。「無数の映画を、つまらないままでもいいから救う方法はないものだろうか。どんな映画も、一度この世に生まれ出たからには、映画としての誇りを持つべきだろう。[…]時に神聖であったり、下品であったりするが、映画はいつも私たちの近くにある」、「面白かろうが、つまらなかろうが、どちらも“映画”であるからには絶対的に可愛いのだ」。なるほど、名だたる巨匠の名作も、はたまた上映後はすぐに観客の脳裏から消え去るような無名のプログラム・ピクチャーも、世界のあらゆる映画は、保存庫に収められるモノとしての重みにおいて、文字通り等価である。したがって本書では、名も知れぬ産業PR映画や沖縄に眠る腐食した輸送フィルム、あるいはかつてフィルムを膜面洗浄して使い回された「再生フィルム」専門の現像所の顛末、日本独自の映画チラシ文化……といった、従来の映画書では周縁部分にも属する興味深いエピソードが、『ニュー・シネマ・パラダイス』や『ゴダールの映画史』といった有名タイトルと、嘘のような自然さで並置される。

 例えば興行や批評の営みが、個々の映画に対して「排除と選別」の論理を行使するものならば、映画保存とはいわば、「未知の映画こそがもっとも観られるべき映画であり、素晴らしい映画でさえある、という確信」に支えられた、ある種の(メシア的な?)「歓待の身振り」だともいえるだろう。「フィルム」=物質への弛まぬ愛と、写真から文学まで、映画に留まらない該博な教養に裏打ちされた同時代文化への省察が悠揚迫らぬ筆致で綴られる本書は、類書とはまた異なった今日の映画文化に対する深い理解を読者にもたらす。また、表紙写真を飾るナイトレート・フィルムの精細な肌理(きめ)も美しい。

 とはいえ、本書の背景にある近年のフィルム保存への文化的意識の高まりには、一つの重要な文脈があることも忘れてはならない。というのも、「とりわけ映画がフィルムからデジタル素材に移行する現在は、フィルムという素材の価値が総合的に問い直され、再評価の波にも浴している」と著者自身もその根拠を記す通り、そこには今日の映画の支持体にまつわる「フィルムからデジタルへ」という急速な移行過程(フィルムレス)が大きく関わっている。今日の、映画に限らない映像全般のデジタル化と高速データ通信による動画配信の一般化(いわゆる「ポストメディウム的状況」)は、長らくフィルムという支持体の物質性や歴史性に規定されていた映画のアイデンティティを「液状化」させ、かつての映画を「動画」の一部に還元させかねない勢いすらある。こうしたメディア的な趨勢の中で、まさに「デジタル時代の到来は、逆にフィルムという媒体の歴史を総括する機会となっているのだ」。事実、映画保存協会から神戸映画資料館まで、全国各地で映画保存関係の組織・施設が続々と生まれたと著者がいう二〇〇〇年代後半とは、同時に動画サイトやSNSの普及期でもあった。したがって、いわゆる「デジタル・ジレンマ」に象徴されるように、いま起こっていることは、デジタル技術の広範な浸透による映像の平準化が、かたやアナログ素材(フィルム)のマスターメディア性をも逆説的に浮き彫りにしている、という事態なのだ。だとすれば、「すべての映画は平等である」という映画保存のリベラルな格律とは、原理的にはいずれそれら総体を含む「すべての映像は平等である」という映像の「メタユートピア」(ロバート・ノージック)にまで拡張されうるものではないだろうか(いずれはゲーム実況動画ですらアーカイブされるかもしれない)。

 むろん、アーキビストたる著者はそこで、当然、「映画」の輪郭をなおも「スクリーン」にかかる「フィルム」のみに限定するある種の「排除と選別」の論理(「物質的ロマンティシズム」)を掲げている。ただ、例えばこの、「いくら物質であることをやめて目に見えない「データ」に化けようとしても、映画がこれまで種をまいてきた物質的想像力は終わらない」と強調する著者の口吻が、年少の評者から見て興味深いのは、それが単なる職務上の客観的かつ倫理的判断という以上に、(著者も記す通り)かつての「八〇年代的」なシネフィル文化を通過した世代的な規範意識にも濃密に由来している点だ。おそらく専門書ではなく、エッセイ集としてまとめられた本書の貴重さの一面は、今日の映画保存事業にまつわる同時代的な文脈のみならず、それを記す著者自身の価値判断の固有の「歴史性」をも図らずもパフォーマティヴに浮き彫りにしているところにあるといえる。

 本書のしなやかで愛着に満ちた「歓待の身振り」が、映画という「物体」に今後もふくよかな彩りを添えていくだろう。

新潮社 新潮
2016年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク