保坂和志が音楽だ 湯浅学

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地鳴き、小鳥みたいな

『地鳴き、小鳥みたいな』

著者
保坂, 和志, 1956-
出版社
講談社
ISBN
9784062202879
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

保坂和志が音楽だ 湯浅学

[レビュアー] 湯浅学

 残尿感というものがあるが、人間はそういう、したのに出しきれていない、なにかむずむずともう少し出そうな気がする状態がずっと続いているのが、常態だと思う。それだから確信めいたことを感じたくて仕方がない人たちがたくさんいてそこに、教訓とか激励みたいなことが降り注がれるとありがたがられるのかと私は常々考えてしまう。単に不安とかそういう言葉では片付けられない、もう少し人の心の根本的図々しさに関わる事柄なのではないか、と思う。その図々しさに煩わされることは少なくない。それでも生きていくわけだからそれはそれでいちいち目くじら立ててもいられないし、だいたい残尿感みたいな日常ってなんだよ、といわれたら、まず本書を推す。

 保坂和志は記憶というものがそもそも残尿だ、というのだ。記憶は、かつて感じたことのまばらな集合体であるから、たとえ鮮明に覚えていると本人が“感じて”いるとしてもその場その時その体調やその心がまえやそもそもそのときの地球状況すべてを裏づけとしてカラダに記録されていたとして、その記録を我々は呼び戻して“感じ直す”ことはできるのか、と問うとき私は私にできるわけねえだろと答える。しかし、そんなの当然でしょ、と保坂はいわないと思う。もしかしたらできるかもしれないじゃん、と思っているかもしれない(なわけないか)。感じる感じている感じていた感じるかもしれなかった感じるかもしれない、こういう状態の個別案件を小説家はいちいち考えなければならない、と保坂はいっていると私は思う。小説の書き方についての書物も保坂は著しているが、その本に書いてあることのほとんどは技術とは心がまえである、ということだった(と私は記憶している)。

 記録の重なり、たとえば人の記憶は雲母のような状態で体内、主に脳内に蓄積されていると思いがちだがそうではないのではないか。夕陽がどこに出ていてどう見ているかどのような天候(風力や湿度や気温)かにそれは簡単に実は左右されることを忘れてはいけない。カラダが憶えている。それは記憶とはいわないのか。カラダが憶えているからエロスになるのだと本書の「地鳴き、小鳥みたいな」は知らしめる。しかしそこには臭いがあまりしない。『朝露通信』にはあった。「地鳴き、小鳥みたいな」のタイトルの“小鳥みたいな”とは「小島信夫」の「小島」が「小鳥」に似ている、ということだ、と保坂は先日いっていた。本当かよ、とそのとき私は思って笑ったが、もちろん保坂は本気だった。

 古い記憶について五〇年以上を経て思ってみるとき、記憶の中の残尿じゃなくて残感(残感覚)はおそらく経年変化したり経過によって着彩されているだろう。そのとき目と耳や鼻は五〇年後よりも元気だっただろうし、欲望も今とは違う風情だっただろう。想像だけど。そもそも残尿感みたいな、という感じがわからないという人も少なくないか、と思いながらこれを今書いているのだが、それそれそこが“残尿感みたい”なんですよ、どうですか? 心やらカラダ(身体=シンタイと書くと仰仰しいし、体と書くと体育を連想してしまうのでこの表記にする)に“残っている感覚”でもスッキリしているものとそうではないものがあって、そうではないもののほうが感覚的に線が太いというか色が濃いように私は思うのだが、本書を読んでもっとそう思うようになった。

 デレク・ベイリーは演奏しながらそれまで演奏したことのすべてを忘れ去っていきたいと思っていたが、ギターを奏でているその瞬間のいくつもはカラダに残ってしまうと私は思う。それでなければ演奏に向かえないからだ。音楽は聴こうと思わなくても聴こえてくるが演奏はやろうと思わなければできない(一部例外あり)。だから音楽家は演奏や歌唱そのものに残感覚が常にあるわけだ。むしろ、演奏上“いい感覚”を忘れないように、カラダに覚えさせろ、というようなことを練習中先生にいわれたりする。その“いい感覚”こそが音楽を狭めていると私は思う。ずいぶん長い間音楽を聴いてきてしみじみそう思う。忘れている、と思い込むことで私たちは残感覚を選別してきた。その破棄した中に今のカラダに好反応するものも含まれていたのではないか、と保坂は思うのだ。

「私は再現するというのは言葉で再現するのはまったく二の次だ、私は再現したいのはいつもそこそのものを再現したい」(本書P六五)。この一文はたいへんなことだ。これを、あー細部まで描写しつくしたいんですね、などと読んだらぜんぜんまったくまちがっている。保坂は“そこそのもの”っていっているじゃないか。もう一度そこそのものに立つことはできないから“再現”したいっていっているのだ。その欲望こそが人間の命の根だと俺は思う。しかも保坂はここに“いつも”と記している。年中そんなこと考えているんだと思ったら、保坂のみすず書房刊『試行錯誤に漂う』が出た。やばい。こっちの本を開けると原稿が書けなくなるのが表紙見てすぐにわかった。みんなもちろん繋がっている。『未明の闘争』も『朝露通信』も、あれもこれも。繋がりは保坂が自分の過去と進行する現在(つまり未来を含んでいる)とをひとつの空間としていることを示している。

 私は音楽全体のことをずっと考えつづけているので、保坂が音楽だと思う。深沢七郎が実際に音楽の演奏家であり小説家でもあることを根拠に「深沢七郎の小説は音楽的である」などという人はつまらない人だが、深沢七郎そのものが音楽なのでそれは少しは当たっているか。音楽は空間を選ばないので時間軸や文脈というものと無関係に実はありつづけているものだ。聴こえないのは聴こうとしていないのだ。音楽を体内で再生するとき文字はいらない。音楽は息のように感じることができる。

「意味というのは意味でなく呼吸の方がわかりやすいときがある」と保坂は記し「意味には意味を逸脱して呼吸と一体化したいという願望があるのだ、意味だけでいいなら声に出して歌う歌はもちろん、詩も俳句も必要ない、散文にだって歌は脈打ってる、それがまったくなければ意味は通じない」とつづける(本書P一五九~一六〇)。なんだか涙が出た。

 ボブ・ディランが何故ノーベル文学賞? という人に私は本書を推める。

新潮社 新潮
2016年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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