生きたすべての生命の記録につつまれて 日和聡子

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すべての見えない光

『すべての見えない光』

著者
Doerr, Anthony, 1973-藤井, 光, 1980-
出版社
新潮社
ISBN
9784105901295
価格
2,970円(税込)

書籍情報:openBD

生きたすべての生命の記録につつまれて 日和聡子

[レビュアー] 日和聡子

 アンソニー・ドーア著『すべての見えない光』は、短編集『シェル・コレクター』および『メモリー・ウォール』で確かな実力を見せて読者の心を掴んだアメリカの作家による長編小説である。第二次世界大戦を題材として書かれた歴史小説である本書は、時間を行き来する十三章で構成され、一文一文にみずみずしく深い詩情を湛えた百七十八の断章から成る。主な舞台となるのは、フランスの北岸、ブルターニュ地方にあるサン・マロという町。その町の空から大量のビラが降ってくる、一九四四年八月七日の夕暮れから、物語ははじまる。

〈町の住民への緊急通知。ただちに市街の外に退去せよ〉。そう書かれたビラが撒かれたあと、町を占領していたドイツ軍に対して、アメリカ軍が爆撃を行い、サン・マロは壊滅状態に追いやられる。その町の一角には、フランス・パリから逃れてきて大叔父の家で暮らしていた、視力を失った十六歳の少女、マリー=ロール・ルブランがいた。そして、十八歳のドイツ人の少年二等兵、ヴェルナー・ペニヒも。物語は、この見ず知らずでありながら深い関わりを持つ二人を軸として、それぞれが辿る日日をめぐり、彼ら彼女らの家族や周囲の人びととその背景を含め、さまざまな軌跡が絡み合って交錯するさまを丹念に描いていく。二人の奇跡のようなめぐり合わせ、またその前後につながる数奇な流れのありようが、かなしみの底に愛と神秘が脈打つ響きをあらわす精緻な文章の積み重ねによって、丁寧に綴られる。ドイツの炭坑町ツォルフェアアインの孤児院で育ったヴェルナーとその妹ユッタ。孤児院のエレナ先生、国家政治教育学校の同級生フレデリック。マリー=ロールの、国立自然史博物館で錠前主任として働く父親や、大叔父のエティエンヌ、家政婦のマネック夫人など、登場人物たちが、暗く厳しい時代の波に引き裂かれる憤りややるせなさのなかにあって、互いに情愛に満ちた関わりをもち、寄り添い支え合って生きるすがたが、濃やかな筆致で写し取られてゆく。中心人物らの前に立ちはだかる人物に向ける視線や描き方も、通り一遍のものではない。それは、物語の世界を冷静に見つめながらも、一人一人の人物や、暮らしの内外に滲み出して彼らを取り巻く空気を含む自然界のありようを、まるごと慈しみ深く見つめる作者の透徹したまなざしが、その筆を通して映し出されているからだと感じられる。かなしみを、かなしみのままでは終わらせないための心と身体の動かし方、働かせ方が、絶えず、熱心に思考され、試み続けられているのを感じる。

 文章に満ちあふれる慈愛と真摯さを感じながら読み進めるうちに、その文章が醸す美は保たれたまま、しかしそれだけになお、描き出される時局の厳しさ、重苦しい空気は、一層胸にのしかかってくる。戦争が描かれる本作の中心に近い部分には、〈炎の海〉と呼ばれる伝説のブルーダイヤモンドが重要なモチーフとして埋め込まれ、物語を動かしていく。この宝石は、作者の創作による架空のものだというが、こうしたところにおいても、本作は、「物語」について強い喚起力を持ち、示唆に富む。〈炎の海〉にまつわる伝説、物語については、それが保管されているという自然史博物館の見学会に訪れた、六歳のマリー=ロールを含む子どもたちと案内係のやりとりが印象に残る。〈「おじいさんは宝石を見たことあるの?」/「ないな」/「じゃあ、本当にそこにあるってどうやってわかるの?」/「お話を信じればいいのさ」〉。その十年後の戦時下で、マリー=ロールは、かつて語られたその宝石の呪いに関する一節を思い返し、続けて、〈物はただの物体にすぎない。物語はただのお話だ〉と考える。それでもまだ彼女は迷いのなかにある。その上で、しかし前へと進んでいく。

 この物語においてその「お話」は、ただの迷信や伝説に過ぎない、と一笑に付すことのできない力を持つ。「物語」は、人を救うものともなり、また迷いや不安を掻き立て、ともすれば誤った方向へ導くものともなり得る。場合によらず、人はしばしば、こうした何らかの「物語」を求め、あるいは自ずから生じさせ、ときにむしろ自らすすんで、それに翻弄されることもあるものではないか。本作においては、作中に織り込まれたジュール・ヴェルヌの『海底二万里』などさまざまな物語が、重要な役割を担い、果たしている。それらの物語が、受け手の人生と密接に関わり合い、美しく頼もしい働きをなしている。「物語」に触れる者は、どのようなかたちであれ、いつもそれに試され、鍛えられようとしている。そのことにも思いを致す。

 緻密で繊細に、しかも自然の法則に沿うような必然的なものとして張りめぐらされた数数の伏線を含め、物語を見事に支え構築するモチーフや構成の鮮やかさ巧みさについては、語ろうとすれば切りがない。しかし、本書は種や仕掛けで読ませるものでないのはもちろん、むしろ、その濃やかで詩情豊かな描写とリズムをもつ一文一文そのものを味わうことこそが、本書を読むよろこびとなるようにも感じられる。

 岩本正恵訳の前二作に続き、藤井光訳となる本書によってもまた、優れた翻訳を通して作品を受け取ることのできる幸せを噛みしめる。読中、作者の書いた言葉そのもの、原文そのものに触れているかのような感覚で作品世界に入り込んでいることにしばしば気づいて、はっとした。

 物語の世界と違い、現実は厳しい。そう言えるのかもしれないが、しかしその厳しい現実が、物語によって伝えられ、人の胸に生生しく突きつけられるということもある。小説、あるいは物語は、現実世界の厳しさ愚かしさ、愛おしさかけがえのなさを、ある種の面白味や旨味を以て、人の心身に摂取しやすいよう加工や添加を施したものではないだろう。物語とは何か、そして小説とは。それが人を含む自然界に何をもたらし、相互にどう働きかけ合うのか。本作は、これまでにない角度から、そうしたことについても考えさせる。

 ラスト近くで、マリー=ロールは、孫息子が〈司令官ゲーム〉を行う手元の機械を出入りしている電磁波を想像しながら思う。〈空気は生きたすべての生命、発せられたすべての文章の書庫にして記録であり、送信されたすべての言葉が、その内側でこだましつづけているのだとしたら〉。国境も海も空も越えて届けられたその言葉は、いま私のなかでこだましている。

新潮社 新潮
2016年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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