『満潮』
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“空気が読めすぎる”美しい人妻 彼女に一目惚れした青年は――
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
西新宿の高層マンションでの乱痴気騒ぎ、玉の輿に乗った美女、彼女に一目惚れした日から六年間の出来事を手帳に記録している青年。ちりばめられたピースが、暗い想像をかきたてる。真壁眉子という女性はどんな経緯で名前を聞いた人が〈って、あの?〉と驚くような事件の当事者になったのか。過去と現在を行き来しながら描いていく。
とにかく眉子の造形が強烈で、忘れがたい。彼女はアルバイト先の会社の社長と結婚し、若くて綺麗な上に控えめな妻として絶賛される。いわゆるトロフィーワイフだ。容姿がいいことは自覚していても、打算や野心はない。夫の期待に応えようとがんばりすぎるくらいがんばる奥さんなのである。彼女は〈だれかの「ために」動いていないと、わたしのからだは「剥製みたい」になる〉という。だから懸命に場の空気を読み、どう振る舞えばいいのか正解を探す。で、いくらなんでもそこまでやられたら気持ち悪いと思うレベルまで、他者に対して献身、あるいは同調してしまうのだ。
眉子のグロテスクな一面が最初にあらわれるのは、小学生のときのエピソードだろう。彼女はクラスで嫌われていた女の子を救うために、授業中にわざとおしっこをもらす。『泣いた赤おに』の青おにになりきって。彼女の突拍子もないようでリアリティのある逸脱をたどっていくと、名作童話から芸能ゴシップまで、自分が生きているのは自己犠牲の物語が賛美されがちな社会であることを実感する。眉子はモンスターではない。ただ置かれた環境に過剰に適応しすぎただけの人間だ。
自分が今いる場所でだれかに必要とされたいという、多くの人が持つ欲望のいびつさと危うさに光をあてた長編小説。読み終えたあとも眉子に恋をした青年の〈ぼくはなにをしたらいい? きみのためにぼくは〉という恐ろしくも無垢な問いかけに搦めとられたまま、なかなか現実に戻れない。