三島が師事した「民草」の国文学者

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清水文雄「戦中日記」

『清水文雄「戦中日記」』

著者
清水 文雄 [著]/清水 明雄 [編集]/前田 雅之 [解説]
出版社
笠間書院
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784305708168
発売日
2016/10/06
価格
4,070円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

三島が師事した「民草」の国文学者

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 新潮社のPR誌「波」をめくっていた時に、ある書籍広告のコピーが目に飛び込んできた。「天皇と三島。清水は二人の紛れもない師であった。」

 今回取り上げる本『清水文雄「戦中日記」』について、松岡正剛が書いた推薦の辞であった。清水文雄は学習院中等科在学中の平岡公威(ひらおかきみたけ)に筆名「三島由紀夫」を与え、小説「花ざかりの森」を自分たちの雑誌「文藝文化」に掲載した。三島終生の師である。その清水が今上天皇の「師」でもあった、というのである。

 この部厚い戦中日記を読むと、正反対であるかのように見える二人は、清水という学習院教授を接点にして、九学年違いにもかかわらず、交錯したという因縁があるのだった。いままでは「正田美智子嬢」と三島との歌舞伎座でのお見合いという因縁が語られてきた(工藤美代子『皇后の真実』では、正田家側の重要人物二人が否定証言をしているが)。そうした「週刊誌天皇制」のゴシップではなく、ことは次代の天皇陛下の「帝王学」に関わっていた。

 苦学の末に、二十八歳で広島文理科大を卒業した清水は、いわば「民草」の国文学者だが、昭和十三年に恩師の推輓で学習院教授となった。昭和十六年には岩波文庫で『和泉式部日記』を出している。昭和十八年元旦には参内し、「大君の尊顔を拝し、感泣」する。当時の学習院は宮内省の下にあったがゆえの光栄だった。歌会始にも「陪聴仰付け」られ、「長年の念願かなひし也」と感激する。その年の七月、三年後に中等科進学予定の東宮殿下の「御教育案」作成を山梨勝之進院長から命じられる。清水の日記の記述は多岐にわたるが、日記最大の主題は、この「御教育案」づくりである。

 授業カリキュラムと教科書編纂を通して、いかに未来の帝王にふさわしい「御修学」をしていただくかに心を砕く。昭和天皇の御学問所時代の教科書を調査し、明治天皇の侍講だった元田永孚(もとだながざね)の「進講録」を研究する。「元田翁天皇学の中枢」は「論語」為政編にありと感得する。外国語は英語にすべきか否か、教科書に選ぶ教材の吟味、特に「国文」では、国体、歴代御聖徳、臣子の忠誠、敷島の道、「みやび」などに力点が置かれる。

 恩師や同僚や友人にも意見をもとめ、完璧を期さんとする。最も信頼する教え子である三島にも「例の件につき意見を出してもらふ」とある。教え子では三島が一番頻繁に清水のもとを訪れていた。三島からの手紙も、清水が感銘した箇所は日記に書き写されている(三島の書簡は既に『師・清水文雄への手紙』として刊)。三島の父からは、「御中元」として月桂冠の一升壜が届けられる。物不足の戦時下、「珍品中の珍品」であった。

 三島の次によく顔を出す教え子に瀬川昌治がいる。戦後は映画監督になって、フランキー堺や渥美清主演の喜劇を撮った。陸軍に入隊した瀬川から、「自身の毛髪がをさめられた」封筒が届けられる。「意のあるところ自ら通じ、心底にじーんとくるものがある」。茨城県内原の満蒙開拓幹部訓練所に動員された生徒は、軟弱な院生だったのが、見違えるように「気魄に溢れ」てきた。彼らの詠んだ和歌の最高点をとっている井原高忠は、戦後は日本テレビで「11PM」「ゲバゲバ90分」等を制作する。井原の歌「天皇(すめろぎ)の御楯とならむ身にしあれば鍬もつ腕も力みなぎる」。成績のいい生徒の中に顔恵民がいる。台湾出身の顔恵民の娘は、シンガーの一青窈(ひととよう)である。なお成績不良者は本書では実名ではなくイニシャルになっているので、ご心配なく。

 清水は妻子を広島に疎開させている。子供たちの便りを日記に書き記し、子供の成長や進学を心配する子煩悩な父親である。第二国民兵として訓練に参加する。数え四十二歳の厄年だが、「まだお役に立つかと思ふと、腹の底から青春が蘇ってくるのを感ずる」。清水の盟友・蓮田善明は、この時二度目の召集で南方戦線にある。敗戦直後に自決し、晩年の三島に大きな影響を与える蓮田は、だから日記にはほとんど登場しないが、日記の陰の重要人物といえよう。日記を読むと、三島はあこがれの詩人・伊東静雄と清水宅で遭遇している。清水を介して、「日本浪曼派」「文藝文化」「コギト」の文人たちが交差していて、まだ彼らに失意の戦後は訪れていない。

 押し詰まった戦局にあって、清水は同僚たちと句会、歌会を開いて、心の憂さを晴らしている。防空壕から空を見上げ、「腹の立つほど、敵機の姿が美しく見える」と感嘆もする。「聖戦」を信じていた人の日常が惻々と伝わってくる貴重な日記である。

 清水たちが精魂込めた「御教育案」は空しく却下となった。清水は昭和二十年四月から日光の金谷ホテルで教育にあたる。六月十一日にいたって、御教育再考の必要を書いている。「やはり厳格な軍隊教育の如きものがよいのでないかと思ふ。最近の御様子を拝するに、以前よりもいくらか弛緩の嫌ひあり。御学友の問題もこの際再燃させる価値があると思ふ」。日記は八月十五日で終わる。

 付録の年譜によると、翌年は小金井校舎で教える。十月二十九日、皇太子の家庭教師として来日したクウェーカー教徒のヴァイニング夫人が、初めて小金井に来る。「その直後、持病の胃痙攣の激しい発作に逢う」。翌年四月、清水は学習院を辞職し、妻子のいる広島へ向かった。その時、行動を共にした山本修は、御教育案をともに練り上げた同僚である。三谷信『級友三島由紀夫』には、山本先生が三島に与えた影響も大きい、とあった。

新潮社 新潮45
2017年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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