年老いたとしても、フラフラしてもいい。「遊行」を理解すれば気持ちも楽になる?
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
『遊行を生きる 悩み、迷う自分を劇的に変える124の言葉』(鎌田實著、清流出版)の著者は、いま68歳。ある壁にぶつかり、迷って、悩んでいるのだそうです。しかし、あるとき「遊行期」「遊行」という言葉に出会ったことで、パッと目の前の霧が晴れたのだといいます。そして、このことに関連してここで紹介されているのは、古代インドの聖人が人生を「四住期」という4つの時期に区切ったこと。
「学生期(がくしょうき)」は生まれてきた命が、学び成長する時期。複雑で難しい時期でもありますが、ありあまるパワーが外に向かい、大切な人生の土台をつくるのだといいます。
「家住期(かじゅうき)」は学んだ土台をステップにして、成熟していく過程。この時期に家族をつくり、家をつくる。人によっては会社、組織をつくり、リアルな世界に根を張るわけです。
「林住期(りんじゅうき)」は老年を迎えていく時期で、人間とはなにか、生きるとはなにか、さまざまな「人生の問題」を解決しようとするのだといいます。そして「遊行期(ゆぎょうき)」は、死の準備の時期、人生の締めくくりの時期ともいわれているのだとか。
でも、著者の「遊行期」のとらえ方は少し違うのだそうです。「人生の問題」から解放され、自分に正直に、肩の力を抜いて、しがらみから離れて生きていく大切な時期だと考えているというのです。だから、この時期こそ好きに生きていいということ。
「遊行」とは、人によっては、解脱、煩悩から自由になることを目標にする時期だといいます。でも僕は字の通り、「遊び、行く」と考え、フラフラしてもいいと考えています。この時期こそ、自分の好きな仕事や、やりたいことをするときでもあるのです。(17ページより)
「遊行」とは、1人の人間が子どもの頃のような、自由な心で生きること。先入観などにとらわれず、こだわりなど捨てて、”遊び”を意識するのです。さまざまな殻を打ち破って、生命のもっと根っこの部分で世界を生きることです。(17ページより)
なるほどそう考えれば、生きて行くことも楽になりそうです。著者の考え方を、もう少し掘り下げてみましょう。
野垂れ死にするほど自由に生きていい
著者は「学生期はこうだ」とか「遊行期はこうだ」などと決めつけるのは、堅苦しくて嫌いなのだと記しています。「人間という秘密」にかぶりつき、迷いながら生きてきただけに、「こんなに簡単に区分けをされてたまるか」と、古代インドの聖人に文句をつけたいほどなのだとか。
実際、学生期には林住期で考えるような「生きるってなんだろう?」というようなことを考え続けていたといいます。家住期のときも、「どうしたらもっと自由になれるか?」と、絶対自由な「遊行」に憧れていたそうです。同じような方もいると思いますが、つまりは人生を「四住期」にピッタリと分けてしまうと、生きる魅力は失われてしまうということ。
「学生期」の人が遊行を意識するとき、素晴らしい人との出会いが起きるのです。
「家住期」の人が遊行のテイストをもって生きるとき、魅力的なことが起きるのです。
「林住期」の人がもうひと花咲かせようと、チャレンジしてもいいのです。
「学生期」の若者が遊行を意識して、「死を恐れず」夢中に生きるとおもしろい。
「家住期」の働き盛りの人が死ぬ気で新しい仕事を楽しめば、ビジネスも夢も達成できる。人生はうまくできています。
「林住期」なんて”なんでもあり”のはずなのに、森や林に隠棲しながら、いろいろ考えるだけなんて、なんだか、くだらないなと思いました。
(18ページより)
つまり、いろいろな生き方をする人がいてもいいということ。だから「遊行期」の人も達観なんかせずに、人間臭くドロドロとした遊行をすればいいのだという発想。だからこそ、若者からお年寄りまで、女も男も「遊行」を意識してみたらどうかと考えてきたという著者は、すべての世代に「遊行」の意識を持って生きることを勧めるのだそうです。
それは、決して難しくはないと著者は断言します。むしろ、苦しみのなかにいる人が「遊行」を意識し、生きることによって、苦しみから解放され、人生を大逆転させることだってできるというのです。(18ページより)
だれでも、いつでも「遊行」を生きられる
人生は、もっとダイナミックに生きたほうがいいと著者。区分けなどせず、どの時期にも、いくつもの折り重なったフェーズ(段階)を自分のなかにきちんと持っておく。そうすれば、人生を強く生きられるようになるというのです。
普通の人生の道筋では、林住期を経て遊行期に入ります。このとき私たちは本来、歴史学者のヨハン・ホイジンガもいったように、「ホモ・ルーデンス」という「遊ぶ生き物」の姿を取り戻すのだそうです。だから遊行期にさしかかったら、「人生の問題」なんか横に置き、肩の力を抜いて無邪気に生きればいいのだということ。(21ページより)
「遊行」は「葉隠(はがくれ)」にも似ている
60代後半まで力まない生き方をしてきたという著者は、いまは、もうひとつの生き方があると確信し、”リキミ”をはじめているのだそうです。生きることは大変だけれどおもしろいから、体の底から力が湧いてくるというのです。
そして、そう実感しているからこそ若者や働き盛りの人も、「遊行」の意識を持つと、人生をおもしろく生きられるようになるそうです。「学生期」や「家住期」に特有の”義務感”のようなものから、ふと自由になる。そして、なにか夢中になれるものを見つけるということ。
山本常朝(じょうちょう)が武士としての心得を口述した『葉隠』の意識にも似ています。何か目標を持って生きようとするとき、「死にもの狂い」という言葉が頭に浮かびます。死んでもいい、くらいに思っているときに、自然と物事は整ってきて、風向きや人生が変わりだすのです。(40ページより)
遊行という意識は、それだけ不思議な力を持っているというのです。(39ページより)
「遊行」を意識すると、失敗が怖くなくなる
ときには、型破りな「遊行」の考え方に活路を見出せることがあります。
あえて自分を”壊す”覚悟が大切です。
それにはまず、自分を”変える”覚悟をもち続けていたいと考えています。
そのためには、自分を”疑う”覚悟が必要です。
(40ページより)
ときどき、自分を顧みなければならないと著者は主張します。いまの時代、みんなが「まあしようがないか」「ほどほどでいいか」と思うようになり、熱い心がなくなりつつあるとも。しかし、怒らないできた人は、ときどき怒ればいいのだそうです(著者はこれを、怒らない自分に対していいたいのだそうです)。
なぜなら、怒りは自分を壊すことにつながるから。若い人は、いま自分をつくっている段階にあるわけですから、「自分を壊す」とは考えにくいかもしれません、しかし、「つくったら壊せばいい」「壊したらつくればいい」と考えるべきだというのです。別な表現をするなら、「最高モデルの自分をつくらなければ」などと考えなければ、生きるのが楽になるということです。
若いからこそ、つくっては壊し、つくっては壊し、すればいい。そうやって人生を変えればいいという考え方です。だからこそ、まず自分を顧みて、自分を疑ってみるべきだというのです。
「遊行」しながら生きていくと覚悟を決めた人は、怒りたいときには怒ればいいのです。自然に肩の力が抜けて、達観したように怒らなくなる人も、それはそれでいい。(42ページより)
つまり「遊行」とは、あるがままに生きるということ。(40ページより)
著者は作家であり、諏訪中央病院名誉院長という肩書を持つ医師でもあります。外側から見ればいかにも成功者ですが、そうでありながらも苦悩を隠さないところに、強い説得力があります。人生をよりよいものにするために、ぜひ読んでおきたいところです。
(印南敦史)