トミヤマユキコ「たすけて! 女子マンガ」
2016/03/16

シンデレラストーリーを夢見ない女子 自力でマンションを買う「沼ちゃん」(「貧しい女」その1)

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 女の人生をマンガに教えてもらおう! をテーマに、文芸誌『yomyom』で始まった新連載「たすけて! 女子マンガ」。第一回のテーマは「貧しい女」。苦難に耐えた末に報われる、そんなヒロインたちに萌え狂った少女時代も今は昔……現代の貧困女子に、マンガはどんな救いを示す!

◆女子マンガは人生の教科書

 呼吸するようにマンガを読むひとがいる。物心ついたときから『週刊少年ジャンプ』を買い続けているひと。『りぼん』派か『なかよし』派かを即答できるひと。「受け」と「攻め」を理解し、萌えるひと。わたしは、そんな彼らに心の底から嫉妬している。

 いまでこそマンガに関する原稿を書いて糊口をしのぐわたしだけれど、本格的にマンガを読みはじめたのは成人してからだ。なぜって、親にマンガを禁止されていたからです!

 わたしが遅まきながらマンガに開眼できたのは、「女子マンガ」のおかげ。この言葉には、産みの親がいる。『FRaU』2009年9月号の特集「女子マンガ好きがとまらない」で、小田真琴さんが「恋に、そして性に絶望したかつての少女たち」を「女子」と呼び、「絶望を知ってしまった少女たちが、現実を肯定し直すため」に読むマンガを女子マンガと名付けたのだ。20代の中盤くらいから人生に悩みはじめたわたしがすがりつくように読んでいたマンガに、「女子マンガ」という名前が与えられた時の「それだ!」感はいまだに忘れがたい。

 中核を担うのは、雑誌でいうと『FEEL YOUNG』『Kiss』『プチコミック』『Cocohana』あたりの「ヤング・レディース」ジャンル。でも、女子たちが現実を肯定し直せそうであれば、学園ラブコメだろうが、島耕作だろうが、女子マンガとなる可能性がある。作者の性別も関係ない。恋愛一辺倒である必要もない。

 わたしが名作だと思う女子マンガの多くは、女たちを慰撫して終わりの「優しい嘘」ではない。ときに「辛い」描写があり、見ていられないくらい「痛い」女たちが登場する。その痛さが自分と似ていようもんなら、凹んで立ち直れないことだってある。

 けれど、しばらくすると不思議と元気がでてくる。辛いことや痛いことの向こう側に、女のカッコよさが透けて見えるからだ。ゴリゴリにマッサージされた後、すごく体が軽くなる、あの感じ。辛ければ辛いほど、痛ければ痛いほど、効く! それがもう少女とは呼べない女たちのマンガなのだ。

 女子マンガは女の苦悩を描くのが得意だ。仕事や恋愛はもちろん、家族関係、経済状況、セクシュアリティなど、中身は多岐にわたる。

 現実の女たちは人生の「選択」に悩みがちだ。あいつとこいつ、どっちと交際するのか、仕事とプライベートのバランスは、結婚はするのか、子どもは産むのか……人生を左右する大事な選択を次々に突きつけられる。女は、社内恋愛に破れ自分だけ会社を辞めるハメになったり、寿退社したり、産休・育休を取ったりと、選択の結果、生き方が変わることも少なくない。それを「女はいいよな~逃げ道があって」と言うひともいるだろうが、人生を節目節目でぶった切られたくない女からすれば、全然よくない。

 多すぎる選択の前で身動きがとれずにいる女たちのために、女子マンガはある。「女として生きることの困難」に直面した登場人物たちが、自分なりの答えを出し、乗り越えてゆく物語を読むことで、わたしたちもまた、自分の人生に何らかの答えを見出すことができるのだ。

 だから、マンガは「子ども時代で卒業するもの」「読む端から忘れていく娯楽」ではなく、「人生の教科書」そのものである。人生に困ったら、マンガを読むべきだ。とくに女子マンガがいい。そこには、たくさんのヒントが転がっているから。

◆おとぎ話だった「貧しい女」

 今回のテーマは「貧しい女」。女性の貧困は、昨今注目されている。月の手取りが10万円に満たない女性が実はいっぱいいる、シングルマザーの生活が本当に厳しい。貧困女性を生み出す社会的構造は強固で、個人の努力ではどうにもならないケースも多い。

 勤め先の大学でも、アルバイトが忙しすぎて勉強するヒマがない女子学生が増えた。おこづかいではなく、生活費や学費を稼ぐためだから、休めないのだという。わたし自身も、大学院時代に借りたウン百万の奨学金を返済中の身。教える方も教わる方も貧しい女……学歴があれば貧困から脱出できた時代はとうに終わりを告げ、いまや大卒だろうが、博士号を持っていようが関係ない。

 昔から貧しい女の物語には、一定の需要がある。明治・大正の少女小説にも、一家の大黒柱を亡くして大変な目に遭う母子の話や、両親を亡くしたお姉ちゃんが弟を養う話など、貧しい女の物語はたくさんあった。なぜそれほど人気なのか。実際に貧しい人が多く、共感を呼びやすかったこともあるのだろうが、恋愛が今よりずっと「はしたないもの」と思われていた時代、苦労物語が少女小説のテーマとして健全&道徳的だったことも大きい。

 いつの時代も、貧しい女たちは、いち早く大人になる。年相応の楽しみを諦め、精一杯生きる。その姿が哀れで切なくてたまらない……そんな読者の同情心とは、萌えの別名だ。

 わたしの子供時代は、アニメ「世界名作劇場」シリーズが貧しい女の宝庫だった。『赤毛のアン』、『私のあしながおじさん』……とりわけ貧しかったのは『小公女セーラ』。良家の子女「セーラ」は、父親の死という運命のいたずらによって、極貧の小間使いへと転落する。女子寮の一等いい部屋から、屋根裏のボロ部屋へ。壮絶ないじめに遭いながらも、セーラはあくまで前向きだ。わたしは、この貧しい女に萌え狂った。「本当は超お嬢様なんだけど、いろいろあって今はこんな暮らしをしているの……」という設定で家の手伝いをすると、むちゃくちゃ捗った。

 ラストで、セーラは貧乏からの脱出に成功する。亡父の盟友がやってきて、実はセーラに多額の遺産があると教えてくれる大どんでん返し。セーラをいじめていた奴らには罰が与えられ、いじめなかった者には厚遇が約束され、物語の幕は閉じた(そしてわたしは、お気に入りの貧乏ごっこをやめ、一介の小学生に戻った)。


 セーラの物語は「苦難に耐えた貧しい女は、救済され褒美を受け取れる」というメッセージを含んでいる。そして、その褒美を与えるのは男。それってつまり、シンデレラストーリー……非現実的なおとぎ話で、読者の生きる現実とは重ならないんじゃないだろうか。

◆貧しいままで幸せになる

 これが現代の女子マンガとなると、事情が変わってくる。「良家の子女×貧乏」といったギャップをドラマティックに描こうとしないのだ。好まれるのは「庶民の女×貧乏」の設定。これは、現実のわたしたちにかなり近い。

 池辺葵『プリンセスメゾン』の主人公「沼ちゃん」は、「年収250万円ちょっと」の居酒屋従業員。アパートの部屋は畳敷きで、エアコンがないらしく夏はかなり寝苦しそうだ。来客時は、お客さんに湯飲みを差し出し、自分はお茶碗を使ってお茶を飲む。

 そんな彼女にはマンションを買うという夢がある。モデルルーム巡りを繰り返し、理想の部屋に出会える日を待っている。お金持ちじゃないから、即決はできない。だからしつこく部屋捜しをする。もはやモデルルームのスタッフよりもマンションに詳しい沼ちゃんである。

 居酒屋の同僚は、それを知って驚いている。「モデルルームなんか見ても、空しくないっすかー。」「俺らみたいな収入でマンション買うとか無理っしょ。」「俺らなんかの手の届く夢じゃないっすよ。」「マンション購入なんて、まぼろしっす。まぼろし…」。

 彼の言葉は、長引く不況下を生きる若者の正直な気持ちをあらわしている。無謀な夢など見ず、死なない程度に稼いで生きていけばいいじゃないか、という彼の考えも、すごくわかる。

 けれど、沼ちゃんは「努力すればできるかもしれないこと、/できないって想像だけで決めつけて、やってみもせずに勝手に卑屈になっちゃだめだよ。」と同僚をたしなめ、「マンション買うなんて、すごい大きい夢に迷わず向かっていって…」と感心するモデルルームスタッフに「大きい夢なんかじゃありません。自分次第で手の届く目標です。家を買うのに、/自分以外の誰の心もいらないんですから。」と語る。

 大富豪になる大どんでん返しも、苦境から救ってくれる誰かも、沼ちゃんには必要ないみたいだ。粘り強く物件を探すことさえ続ければ、自分の心ひとつでマンションが手に入ると信じているのだから。

 マンションが買えても貧乏なんてみじめだ、と思うひともいるだろう。でも、女子マンガ的に言えば、シンデレラストーリーに依存することなく、ひとりで自分だけのお城を探すプリンセスは、相当カッコいい。沼ちゃんは貧しさを誰か/何かのせいにして、いつ来るとも知れぬ王子様を待つ人生から一番遠いところにいる。

 女ひとりの貧乏暮らしをものともしない沼ちゃんの人生観は、とにかく素敵だ。というかシビれる。なぜならそこには、自分で選択した人生がちゃんとあるから。

《「貧しい女」その2につづく》

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