トミヤマユキコ「たすけて! 女子マンガ」
2016/08/15

分析の哀しみの果てに無我はあるか「アラサーちゃん」「ちひろさん」(「おもしろい女」その5)

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 マンガに女の人生を教えてもらおう! をテーマに文芸誌『yomyom』で連載中のトミヤマユキコさん「たすけて! 女子マンガ」。今回のテーマは「おもしろい女」です。『のだめカンタービレ』や『はいからさんが通る』などの「無意識系おもしろい女」がボケのおもしろさを持つ女たちだとするならば、「自意識系おもしろい女」とは『臨死!! 江古田ちゃん』など、ツッコミのおもしろさを持つ女たちだといえそうです。しかし、高い分析力を持つ女たちには、人知れぬ生きづらさがあるようで……。

* * *

『江古田ちゃん』を紹介したのであれば、峰なゆか『アラサーちゃん』シリーズも紹介せねばならない。同作は、恋愛をめぐる男女の生態を描いた作品。「アラサーちゃん」は、「モテと自我の狭間で立ち位置をきめかねている主人公」であり、江古田ちゃんに勝るとも劣らない分析力で恋する男女にメスを入れて笑いに変えてゆく。

『アラサーちゃん』の人間関係は、やや複雑だ。アラサーちゃんが好きな相手は、編集者の「文系くん」。でも彼は、雑貨店勤務の「ゆるふわちゃん」を気に入っていて「ゆるふわちゃんみたいな女の子といっしょに子供二人作って平和に暮らしたい」と思っている。そしていまだに「女の子」を自称する34歳のゆるふわちゃんは、青年実業家の「オラオラ君」が好き。でもオラオラ君はアラサーちゃんの元彼氏で、現セフレ。

 自分が好きになったひとは、自分を好きではないし、自分を好いてくれる人は「なぜそこを?」みたいな所を好きになるから受け入れられない。永遠に交差しない想いだけが、グルグルと渦巻きながら、出口を探している状態。少女マンガではおなじみの「全員片想い」設定を大人の世界に持ち込み、狭いサークルの中で人間関係を煮詰めてゆく手法は、エグいけれど、珍味のような旨さがある。

 同作をはじめて読んだとき、アラサーちゃんが「モテと自我の狭間で立ち位置をきめかねている」キャラだと知って、そのリアルさに舌を巻いた。20代ならばさして悩まなかったモテと自我のバランスが徐々に崩れてゆくアラサーならではの不安感を、この設定はとてもよくあらわしている。「若い女」という仮面の下に厄介な自我を押し込めていればそれなりにモテた20代とアラサーとでは、事情が違うのだ。仮にマニュアル通りの言動でモテても、そんなの空疎すぎて、30年モノの自我が納得しない。かといって、自我をそのまま表に出せば、若さというオブラートがない分、モテは遠のく。

 モテのために自我を殺すか、自我を生かしてモテを殺すか。もちろん、モテと自我が両立するなら、それに越したことはないのだけれど、それは限りなく奇跡に近い。

 だからアラサーちゃんは、自我をめぐるトライ&エラーを繰り返す。たとえば、文系くんがゆるふわちゃんを好きだと知れば、彼女と似たような格好をしてみる。文系くんはすごく喜ぶが、当のアラサーちゃんは「私にも社会生活ってものがありまして…/あなた色に染まれない私を許して!!」と言いながら服をゴミ箱に捨ててしまう。……身に覚えがありすぎて、共感しすぎて、胸がいたい。こんなモテ方をしても虚しいだけだということが、若い時よりもハッキリと分かってしまうのがアラサーだよなあ。とくにアラサーちゃんは分析上手だから「これは失敗だ」と気づいて言語化して反省するまでが一瞬で、それが余計に虚しさを加速させるのだよなあ。

 しかしここで、一切の自我を捨てられれば、安田弘之『ちひろ』シリーズの主人公「ちひろ」になれる。ようは「無意識系にもなれず、自意識系としても息苦しさを感じるのであれば、いっそもう、意識そのものから離れてはどうか?」という話。極論かも知れない。でもいつかはちひろの境地まで突き抜けたいというのが、最近のわたしの願いだ。

 作中、元風俗嬢でいまは弁当屋で働くちひろに、常連客のOLたちが、独身で彼氏もいないなんて淋しいしもったいない、合コンに来い、と誘いかけるエピソードがある。「ダメですよもっと人生攻めていきましょうよ/自分のワクに閉じこもってちゃダメですって/出会いはじっとしてちゃ来ませんよ/女子力は油断してるとおとろえる一方ですよ」……これは弁当屋でのちひろしか見ていない者の意見であって、じつはちひろのプライベートはかなり充実している。見知らぬホームレスを「師匠」と呼んで仲良くしてみたり、近所の子どもたちと知らない街に出かけてみたり、閉店した居酒屋を勝手に開けて1日だけニセ女将をやってみたり。彼女は、おもしろい女の中でもかなりの手練れだ。でも、OLたちはそんなことはなにひとつ知らないから、ちひろを淋しい女だと決めつける。そのことにイラっときたちひろは、売られた喧嘩は買いますとばかりに、合コンへ出かけてゆく。

 合コンを一種の戦場にたとえるちひろは「若い頃は火力でごまかせる――/でもね30越えたら/火力より命中精度/私をなめて/退役寸前の女扱いしたことを後悔させてやるわ」と語る。そして、話術と座席移動の技術だけで次々と獲物をしとめてゆくのだった。彼女の話の中には、下ネタもあれば、一部の好事家にしかわからないマニアックなネタもある。まかり間違えば、おもしろすぎてモテから遠くなりそうに思えるけれど、彼女の話は全て相手の欲望を見透かし、そのニーズに合わせて繰り出されたもの。話の中心にいるように見えて、彼女の自我はほとんど存在しない。

「攻めるのではなく/受け切る力が女子力じゃない?」……合コンの最後に飛び出す最高のセリフだ。愛されゆるふわ猛禽になることだけが、女子力じゃない。愛されたいなどという自我すらも捨て、他者の欲望を受け切ることもまた女子力なのだ。しかもちひろは、モテるだけモテておいてさっさと帰り、合コンメンバーの誰とも親しくならない! カッコよすぎか!(凡人がいきなり真似できるものではないが、憧れる)

 ああ、昔のわたしに教えてやりたい。おまえが合コンで全くモテなかったのは、おまえが「おもしろすぎた」からじゃないよ。おまえがみんなの欲望をキャッチせず、ただ持ちネタを披露していただけだからだよ、と。

 女子マンガの中のおもしろい女たちは、それぞれ面白さの種類も活用法も違っている。でも、おもしろさを若さや美貌で誤魔化さずに世間を渡ってゆこうとしているところは、とてもよく似ていると思う。たとえそれが欠点・弱点からくるおもしろさであったとしても、そこを誤魔化さずに前進することで、ちゃんと世界の中に自分の居場所を作り、みんなとよろしくやっている(岡田あーみんの描く超個性的&非現実的キャラでさえもその例外ではない)。

 なにより、おもしろい女たちは、世界を救ったり、世間の常識に否を唱えたりしていて、すごくカッコいい(真面目にがんばってる感じじゃないから、余計にカッコよく見える)。だから、おもしろい女を笑って消費するだけの人びとは、どう考えても損をしている。

 惚れろ、おもしろい女に。活かせ、おもしろい女を。……なんだろう、女子マンガのおもしろい女たちには、かなり自虐的なエピソードもあるハズなのに、読後はいつも謎の全能感に包まれてしまう。これもおもしろい女の力か。だとしたらすごいな。

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