文学的多様性はいかにして可能か――絲山秋子『薄情』論

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薄情

『薄情』

著者
絲山 秋子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104669073
発売日
2015/12/18
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

文学的多様性はいかにして可能か――絲山秋子『薄情』論

[レビュアー] 田中和生

 前作となる長篇『離陸』(二〇一四年刊)において、作者である絲山秋子はマルティニーク諸島出身のフランス人「イルベール」という魅力的な登場人物を造形し、作中でもエメ・セゼールやフランツ・ファノンといった文学者の名前を出している。だから最新作である長篇『薄情』を読んでいても、ついクレオール文化の流れを参照したくなる。

 この作品で作者が一人称に近い三人称で寄りそうのは、高崎近辺に住んでいる三十代ぐらいの「宇田川静生」という男性である。冒頭で、東京方面から乗ってきたらしいJR高崎線を降りる「かれ」は、秋葉原あたりで女性と会っていたようだが、連絡されないようにとスマートフォンの電源を切っている。家に帰ると父親は入院していて不在で、母親からは「土井さん(お父さんの友達)のお母さんが亡くなった。お父さんにはメールで伝えてあるが、明日六時からのお通夜には静生が代わりで出てほしい」というメモが残されている。

 ロマンスや結婚とは結びつきそうにない男女関係と、仲がよくも悪くもない家族と、人の死。その後、隣の山梨県で大騒ぎとなった大雪が群馬県でも降って、お通夜は一週間延期されるのだが、書き出しの内容だけ見れば特別なことなどなにもない、二〇一四年における一地方の生活である。むしろ読者の興味を喚起するのが難しい、不景気な話題ばかりと言っていい。しかし間違いなく、作品は魅力的なのである。おそらくその秘密の一つは文体にある。

 もともと絲山秋子自身の文体がそうだが、一文一文が簡潔で、鋭く言い切る文章ばかりで書かれている。そしてこの作品ではとくに顕著なように、文章同士のつながりはあまり論理的ではなく、持続的に長い意味を展開しない。ロマンスや結婚という話題にならないのもそのせいだが、結果として文章は「かれ」をめぐる出来事を記録する、叙事詩のように見える。

 ではその叙事詩のような文体は、文学作品としていったいなにを記録しているのか。そう考えたとき、カリブ海域を拠点とする詩人であり、二十世紀後半の小説家であり、クレオール文化の理論的支柱でもあったエドゥアール・グリッサンが、一九九〇年に刊行した評論『〈関係〉の詩学』(管啓次郎訳)で書きつけている、次のような言葉が思い浮かぶ。——今日われわれが世界と呼ぶものは、〈歴史〉を語る諸哲学の主張を一掃した、諸民族の歴史であり、さらにこれら個々の歴史ならびに地球という惑星をなすさまざまな物質の(意識における)出会いのうちにある。

 かつて日本語による私小説もそうしたように、主人公である「かれ」の存在を記録するだけなら「かれ」の目に映るものを描写すればよい。しかしそれは結局のところ、描かれる「かれ」自身が特別な存在であるという階層を生み出す。そのメカニズムは、二十世紀後半にいたるまでパリのフランス文学がクレオールを見えにくい存在にしていたものとおなじだが、だとすれば描写など必要最小限しかしない絲山秋子がこの作品で目指しているのは、その研ぎ澄まされた文体のうちで「さまざまな物質の(意識における)出会い」を実現することではないか。なぜならそこにこそ、特別ではない見えない存在とされてきた人々が息づいている、生きた「世界」があるからである。

 とはいえ逆説的だが、そのような「世界」の表現が、カリブ海域出身の文学者たちがパリのフランス文学と「出会い」、そこでクレオールが見えないものにされていることに気づくことによって、初めて可能になったのも事実である。つまりグリッサンが主張するような、そこを生きた「世界」にしている多様な「出会い」の起源にあるのは、それまで特別な存在と見なされてきたものと、その存在のせいで見えにくくされてきたもののあいだで起きる「出会い」にほかならない。ちょうどその物語的な表現になっているのが、東京に自宅をもつ木工職人「鹿谷さん」が群馬にアトリエとして借りている倉庫「変人工房」の存在である。

 クレオール文化でパリとマルティニーク諸島が対比されていたとすれば、その対比はこの作品では東京と群馬、ないしは高崎との関係に移されている。だから冒頭で「かれ」は東京方面から帰ってくるが作品は熊谷に入ったところからはじまり、二〇一四年に起きて多くの群馬県民も巻き込まれた「あの大雪」が東京中心の「震災」や「戦争」と対比され、そして自治体から援助を受けて倉庫を借りられるほどの存在である「鹿谷さん」と自宅住まいのフリーターで社会的には何者でもない「かれ」は「変人工房」で出会う。

 もちろん「変人工房」がなくても、生きた「世界」で「かれ」は名古屋から実家に戻ってきた高校時代の後輩の女性「蜂須賀」と再会し、「変人工房」を紹介してくれた美容師「関君」と交流していただろう。けれども「関君」が部室みたいな場所だと形容し、「かれ」が実家のようだと思いながら入り浸る「変人工房」は、東京のような中心地とは違った一地方でなければ存在しなかった「面白いコミュニティ」でもある。その中心にいる「鹿谷さん」が群馬に根を下ろしていない、よそ者であるからこそそこには様々な人が出入りし、群馬の群馬らしさを映し出す鏡ともなる。

 そうして「かれ」は、烏骨鶏を飼っている「相沢さん」や東京に実家がある「山井さん」と出会い、「変人工房」に出入りしている「蜂須賀のお父さん」を横目に見ながら、離婚して名古屋から実家に戻って東京近辺で仕事を見つけようとしている「蜂須賀」と車で一緒に出かけ、群馬の群馬らしい時空を「かれ」の周囲に出現させていく。そのような意味で、長篇『薄情』は作家たちが意識的にせよ無意識的にせよ東京を舞台にすることが多い、それに対抗できるのは関西方面を舞台にした作品ぐらいしかない、どうしても東京中心に見える現代文学に対して多様な場所を舞台にした魅力的な作品が可能であることを示す、クレオール的な文学となっている。

 しかしそれだけで、このきわめて独特な味わいをもつ作品の素晴らしさを説明したことにならない気がするのは、たしかに「あーねー」という印象的な群馬弁がうまく生かされ、群馬の様々な土地のかけがえのない印象が言葉に換えられているが、群馬はマルティニーク諸島のように植民地であったわけではないし、群馬弁は日本語と対立して支配される言語でもないからである。むしろ書き言葉としては、群馬を舞台にしても東京を舞台にしてもその場所を客観的に描き出そうとすれば、絲山秋子自身の作品がそうであるように日本語は共通したリアリズムの文体に近づくように思える。そうでなければ群馬の群馬らしさの表現は実験的な文体破壊と変わらないものとなり、多くの現代小説が無意識の前提とする東京の東京らしさと異質なものであることがわからなくなるからである。

 そのような意味で、わたしがこの作品の余白の多い、目に見えない内的なリズムが刻まれた、意志的なリアリズムの文体から連想するのは、まだ第二次世界大戦が終わっていない一九四一年にイタリアで刊行された、エリオ・ヴィットリーニ『シチリアでの会話』とチェーザレ・パヴェーゼ『故郷』からはじまるネオリアリズモの作品である。一九四七年に刊行したデビュー作『くもの巣の小道』で自らネオリアリズモの傑作を書き、のちにリアリズムの文体による作品から離れることになったイタロ・カルヴィーノは、一九六四年に再刊された『くもの巣の小道』につけた長い「序文」で、ネオリアリズモ運動を回想して次のように語っている。

「《ネオレアリズモ》はひとつの流派ではなかった。(……)それは、大部分が周縁における、さまざまな声の総体であり、さまざまな地域のイタリアの、と同時に——とりわけ——それまでは文学上とくに未知であった、さまざまなイタリアの、多様な発見であった。互いに見知らぬ者同士であった——あるいは見知らぬ者同士と思いこんでいた——多様なイタリアなしには、文章語のうちに発酵させ練りあげるべき土地言葉や土俗表現の多様性なしには、《ネオレアリズモ》はありえなかったであろう。しかしそれは十九世紀の地方的ヴェリズモ[真実主義]におけるがごとき郷土的意味あいのものではなかった。地方色という特徴づけは、広い世界をすすんで認識しようとするさいの表現に、真実味を加えるためのものであった。(……)だからこそ、言語が、文体が、リズムが、私たちには重要だった。まさにそれゆえに、私たちのリアリズムはできるだけ自然主義(ナチュラリズム)から遠くあらねばならなかった。」(河島英昭訳)

 ここで自然主義から遠いリアリズムと言われているものは、ほとんどそのまま描写を最小限しかしない絲山秋子のリアリズムと重なる。だとすればその文体が実現しているのは、日本ではまだ群馬を舞台にしてしか起きていない、あるいは小川国夫の藤枝を舞台にした作品ぐらいしか先行する試みのない、さまざまな日本の、多様な発見である。

 もちろんネオリアリズモ自体は、そのリアリズムの背後に政治的な視線を隠すようになり、カルヴィーノが批判的に見るようになった限界があって運動として終息していくが、だとすればそれがクレオール文化以降の二十一世紀の世界においてふたたび価値をもつためには、しばしば批判されるリアリズムの限界がよく意識されていなくてはならない。その点で、表題が示唆するように主人公の「かれ」が群馬の群馬らしい共同体のなかでは「薄情」であり、人間的な感情の外部に立つ人物として造形されていることは注目に値する。つまり、伯父が神主をしている神社を継ぐという理由で群馬に釘づけられている「かれ」は、群馬の群馬らしさをリアリズムの文体で映し出す他者であり、だからこそ恋愛や結婚をしたり神主以外の何者かになったりして群馬の群馬らしい共同体の外にけっして出ることのない、永遠の鏡である。

 これはクレオールではない日本語で、文学的多様性の表現が可能であることを示し、二十一世紀における世界文学が向かうべき方向の一つを切り拓く、傑作長篇である。

新潮社 新潮
2016年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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