生きる意味を知るため――御嶽山に赴く少年、追う男
[レビュアー] 中江有里(女優・作家)
以前映画の撮影の為、二ヶ月ほど毎日のように九州のある山を登った。大勢のスタッフと連れだって登り始めるが、やがて会話は消え、誰もが黙り込む。わたし自身一歩一歩足を踏み出す岩場を探りながら思考を巡らせていた。本作を読みながら、山を登り続けた日々を思い出した。
御嶽(おんたけ)の膝元の街で暮らす潤は、幼少時代から母恭子に愛されず、一方的に傷つけられるまま育ってきた。自分が何のために生まれたのか、生きている意味を知りたくて、誰もいない時期の山へ入ることを決める。御嶽に住まう神に逢って、答えを聞くために。
一方、山で暮らす無神論者である強力(ごうりき)の孝のもとに、突然恭子から電話がかかってくる。
「潤はあんたの息子」と告げられるが、孝は半信半疑だ。しかし荒天が接近する山に一人きりで入った潤を放っておくことができずに、後を追った。
神を信じる潤と、信じない孝。登場人物は少なく、物語は山を行くそれぞれが置かれた状況、それに対する行動、心理描写のみで進行する。会話はなく、過去の出来事の想起、自分への問いかけと、神への問いかけが繰り返される。
かつて山を登った日々に山岳ガイドから様々なアドバイスをもらったが、中でも印象的だったのは「振り返るな」という言葉だった。ある程度の高さを登ったところで振り返ると、思いがけない恐怖を感じて足がすくんでしまうことがあると聞いた。
本作の舞台である御嶽は二〇一四年の九月に大噴火し、死傷者が出た。山はどれだけの高さを登ったとしても、好天候であっても下りるまで油断ならない。自分ではどうにもならない天候や噴火、内面の変化が命取りになる。だからこそ人の力を超えた神がいる、と信じられ、急な天候の変化を畏れ、豊かな恵みに感謝する山岳信仰が生まれたのだろう。
神を信じない、山のプロでもある孝ですら、天候の回復を祈りながら自嘲する。
「だれに祈るというのだ? 神にか? 天にか?」
祈りとは、自分の力ではどうにもならない時に自然とあふれる思いかもしれない。
同じ日の同じ時間に御嶽にいた二人は、互いに祈り続けて歩いた。会話も交わさない二人に、不思議なつながりが生まれ、つながった糸は引き合いながら、やがて巡り合う。潤が生まれてきた意味を悟った時、わたしも縛られ続けてきたすべてのものから解き放たれた気がした。