三島賞会見で話題 『伯爵夫人』は本当に“エロ一辺倒”なのか?

レビュー

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伯爵夫人

『伯爵夫人』

著者
蓮実, 重彦, 1936-
出版社
新潮社
ISBN
9784103043539
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

三島賞会見で話題 『伯爵夫人』は本当に“エロ一辺倒”なのか?

[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

 太平洋戦争の開戦前夜、世界の均衡がいままさに崩れんとする一瞬をとらえた小説である。

 前評判では、性描写のことばかり取りざたされた。実際、記憶や妄想の中から引き出される性交の描写は多く、男性性器、女性性器をあらわす言葉は隠語から丁寧語にいたるまでばんばん出てくる。主人公の二朗青年の下半身は、さまざまな理由でくりかえし女性の目に曝され、いじくられるが、その描写はあっけらかんとどこかスポーツめいて、思わず笑いを誘われる。

 性の裏側に張り付くようにして、この小説を覆っているのは戦争の予兆である。タイトルにもなった“伯爵夫人”とは、二朗の家で暮らしている謎めいた年上の女性で、彼女は子爵である二朗の祖父の〈めかけばら〉の娘とも、高等娼婦とも噂されている。そのあだっぽい彼女が密室で二朗と二人きりで向かいあうと、性のてほどきではなく、自分がこれまで見聞きしてきた過去の戦争にまつわる記憶を熱っぽく語りはじめるのだ。

 小説に登場する舶来のココア缶のパッケージに描かれた、その同じココア缶を載せた盆を持つ尼僧の絵のように、語り手は時間のトンネルをくぐって、どこに行きつくのかわからないまま時の流れをさかのぼる。語られる情景は活動写真の一場面のようでもあり、その語りがあまりになめらかなので、いま語られているのはいつのことか、場所はどこなのか見失いそうになるが、それをみはからったように、もといた場所にぐいと引き戻される。

 まだ女性を知らない二朗は〈再来年は徴兵検査〉とあるからおそらく十八歳だろう。小説の最後に二人が過ごしたこの日がいつかが明示され、彼の青春の最良の日々がそこで終わったことを知らされるとき、あたりの照明が暗くなって、死とエロスが一段と濃く匂いたつような気がした。「平岡」の名で三島もちらっと出てくる、三島賞受賞作。

新潮社 週刊新潮
2016年7月7日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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