“叩き芸”の嫌中本とは一線を画す「中国本」

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予想を裏切る一気通読「中国本」

[レビュアー] 林操(コラムニスト)

 傍若無人で迷惑至極な隣人に対抗するには、まず相手の来し方、人となりをつかんでから―と、手に取った一冊だったのに、予想は大きく裏切られました。

 安手の中国叩き芸で読者の溜飲と知的水準を下げる嫌中本ではなく、『中国の論理 歴史から解き明かす』という題名どおりの仕事を、政治臭のしない研究者(岡本隆司)がやってくれる点は、いや、期待に相違なし。

 その分、どこかで眠くなるお勉強新書かもという覚悟もあったのだけれど、実際には一気通読。長すぎ広すぎる中国史を簡潔に、わかりやすく、しかも面白く、深く、そして偏らずに語られるなんて体験、中国好きでもないかぎり、なかなかできるもんじゃない。

 もうひとつ、望外の拾い物だったのは、困ったアノ国について蒙を啓(ひら)かれてるはずなのに、困ったコノ国について思い至る点がいくつも出てくること。

 敗戦後にアメリカを、維新後にヨーロッパを見本に仕立てたニッポンは、それ以前には長らく中国を手本にしてきたわけですが、そのやり方もテキトーなイイトコ取り。しかも、君と臣、長と幼、士と庶(民)その他いろいろの儒教の縛りを、上が下を押さえつける構図の維持に現在ただ今もなお、利用し続けてる。

“上級国民”には刑罰無用と『礼記』にあるのは、罪を犯せば自らを裁くというノブレス・オブリージュが前提。エラい人全般の罪に大甘なままじゃ、『日本の論理』なんて良書が中国で出かねませんぜ。

新潮社 週刊新潮
2016年9月29日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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