これは、小林秀雄と中原中也のブロマンス…? 『最果てにサーカス』月子|中野晴行の「まんがのソムリエ」第14回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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評論家・小林秀雄と天才詩人・中原中也の青春
『最果てにサーカス』月子

 老眼が進んだこともあって、近頃は本を読む量が大幅に減ってきた。読むスピードが遅くなり、結果としてたくさんは読めないのだ。
 思えば、これまでの人生で一番本を読んだのは高校時代ではなかったか。ジャンルや作家にはこだわらず、手当たり次第に本でさえあればよかった。ところが、苦手な書き手というものがあって、評論家・小林秀雄の本だけはダメだった。「受験に必ず出る」と言われて、がんばって読み始めるのだが、途中で挫折。これを何度か繰り返してとうとう「小林秀雄はきらいや」と宣言した。するとクラスの文学少年が言った。
「君が大好きな中原中也と小林秀雄が親友やったことは知ってる?」
 当時の私は中原中也詩集をいつも持ち歩いていたのだ。知らないというのもシャクだから、「もちろん知っている」と返事をしたものの、実は知らなかった。作者自身のことにはあまり興味がなかったのだ。

 あの頃、このマンガがあったらなあ、と常々思っている作品を紹介しよう。小林秀雄と中原中也の青春時代を描く、月子の『最果てにサーカス』である。

 ***

 物語は大正14年の春からはじまる。舞台は2年前の関東大震災で受けた甚大な被害からようやく復興したばかりの帝都・東京。
 主人公の小林秀雄は23歳。東京帝国大学仏文科1年の学生だ。4年前に父親を亡くし、母親も入院中で家は貧しく、小林の家庭教師のアルバイトでかろうじて生活している。妹の富士子が家計をやりくりしているが、食べるのがやっとで、小林には学校に着ていく学生服すらない。
 それでも志は高い。小林はいつか文学者として身を立てる日を夢見ていた。
 そんな小林が文芸同人誌『山繭』の仲間たちと最新号刊行祝いを兼ねた花見をしていたとき、奇妙な風体の若者が現れた。
 中原中也18歳。山口の医者の息子で、自称「詩人」。中学を卒業し、日本大学の予科(付属高校のようなもの)への進学を目指して上京。友人で『山繭』の同人・富永太郎が仲間に紹介するというのでついてきたのだ。しかし、病身で足の遅い富永を途中で置き去りにした中也は、なんの面識もない小林たちの前にいきなり登場したというわけ。
 作品の冒頭から中也の傍若無人ぶりに驚かされる。初対面の『山繭』の同人たちを相手に芸術論をとうとうと語り、彼らを侮辱し、酒樽に文字通り頭から突っ込み、酔っ払って寝てしまう。ちょっと可愛いが、あまり仲良くなりたいタイプではない。だが、小林は中也との出会いが文学者としての自分を変えてくれるのではないか、と考え始めていた。
 真面目な小林は自意識の中に閉じ篭り、創作の上では完全に行き詰まっていた。中也はそんな小林の作品を評して言う。
「君の作品からは、衝動が…体温が…宇宙が感じられない!! ぬくぬくとした繭の中から飛び出して、魂の深いところから君だけの言葉を紡ぎ出したらどうだ? …僕は、それが読みたいよ。」
 そして、「月夜の晩に」という詩を即興で読み上げてみせた。それはまさに天才のなせるわざだった。

 試験に失敗して(二日酔いで遅刻)故郷の山口に戻った中也は、しばらくして再び東京に戻ってきた。小林の家の近所に住まいを見つけ、女優志望の長谷川泰子という美しい女性を伴って……。こうして、小林と中也、そして泰子の奇妙な付き合いが始まる。中也は毎日のように小林の家を訪れ、ふたりは文学論を戦わせる。小林は中也の才能に嫉妬しながらも、確実に彼に魂を奪われていく。
 富永太郎は中也を評して言う。
「あいつは天使のように無邪気な顔をして、実は悪魔のように残酷な奴なんだ。」
 中也のことを知れば知るほど、その才能の大きさに気づかされ、自分の無力を悟らされることになる小林は、悪魔のような天才に出会ってしまった非凡な才能……モーツァルトに対する宮廷楽長・サリエリのような存在だったのかもしれない。

 泰子に思いを寄せる小林の姿や、病身の富永を気遣い、彼の若すぎる死にショックを受ける中也など、青春ものとしても読みどころがいっぱい。各章ごとに紹介される中也の詩の選択もすばらしい。
 もちろん、実際の小林と中也がこんなふうに付き合ったのかどうかはわからない。数多くの参考文献をもとに、フィクションとして紡ぎ上げたのがこの作品だ。年譜と付き合わせて、あれこれ詮索しても意味がない。
 むしろ、詩に心を浸すように、マンガに描かれた世界に身を浸すほうがいい。
 私はこのマンガを完結まで読んだら、本棚でほこりをかぶって紙も茶色くなっている、小林の『モオツァルト』や『Xへの手紙』や『無常といふ事』にもう一度チャレンジしようかと思っている。

中野晴行(なかの・はるゆき)

1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2016年11月2日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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