ダイエットも恋愛も「諦め方」が肝心――ポジティブに「あきらめる」仏教の知恵

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「諦める」という言葉は、最後までやらずに途中で投げ出すという意味で使われがちです。でも、仏教では、必ずしもネガティブな言葉ではなく、物事の本質を明らかにする、つまり「明らめる」の意味を含めた前向きな言葉なのです。悩みや境遇、負の感情などを積極的に「諦める」ことで、心の重荷は軽くなり、新たな一歩を踏み出すことができ、人生は好転するのです。数多くのベストセラーを執筆し、物事や自分の心のあり方をよく観察する必要性を説いている密蔵院住職・名取芳彦氏(ほうげん和尚)に、「あきらめる」ときの心の持ち方をお聞きしました。

■「諦める」も「明らめる」も語源は一緒!

 最後までやらずに途中で投げ出すことを「あきらめる」(諦める)と言います。
 なんとも情けなく、切なく、やる瀬なく、虚しさを感じる言葉で、できれば使いたくない言葉の一つでしょう。
 ところが「諦」を漢和辞典で引くと素晴らしい意味ばかり。悪い意味は一つもありません。どうやら、私たちが思っているほど諦めるのは、悪いことではなさそうです。

 もともと、「諦」の「旁」(つくり)の帝は、三本のたれた線をひとまとめに締めたさまを表す象形文字で、そこから出てくる意味が、

 一、つまびらかにする。いろいろな観察をまとめて、真相をはっきりさせる。
 二、まこと。全体をとりまとめて見通した真相。

 と、あります。
 日本語では「明らかにする」に近いでしょう。明るく照らされて物の様子がはっきりすることから、「真相が明白になる」の意味でも使われるように、「明らか」は疑いのないほどはっきりしているさまを表します。ここから、サンスクリット語のサティアの訳語として、

 三、(仏教語としての)真理。また、悟り。

 が出てきます。

 日本語でも「諦める」と「明らめる」の語源は同じ。もともと私たちは、物事の本当のあり方を「明らか」にするから「諦められる」という意識が今より強く働いていたのです。年は取りたくないと、いくら願っても「生まれた以上は年を取らなければならない」のが“明らか”なので、「年寄りになるのはしかたがない」と“諦め”られます。

 近世になって「物事のあり方を明らかにして」という前提が消えてしまい、単に断念し放棄するのを、「諦める」と言うようになりました。言葉の変化はいつの世にも起きますが、「明らか」にすればキッパリ潔く「諦められる」のに、「明らかにして」という前提をほとんど意識しなくなったのは、もったいないと思います。

■人生で本当に大切なのは、物事の本質を「あきらめる」こと

 一方、仏教では、お釈迦さまが明らかにした基本的な教えを四諦(したい)と言うくらいで、現在でも「諦める」と「明らめる」は、ほぼ同じ意味で使われています。
 では、きれいさっぱり諦めるために、何をどのように明らかにしていけばいいのでしょう。

 それには、物事や自分の心のあり方をよく観察するのが一番です。
 予定していた屋外イベントが雨で中止。その時、行きたかったイベントを諦めるには、「天気は変えられない」と明らかにする必要があります。そうしないと、「どうして雨なんか降るのだ」「せっかく準備したのに」と愚痴を言い続けることになります。

 私の経験上、ダイエットを諦める時に明らかにすべきなのは、「私は食べるために生きているのだ。今は食欲のほうが勝っているのがわかった」「『男は死にたくないからやせる。女は死んでもいいからやせる』とはよく言ったもの。今の私には、体のダイエットより心のダイエットをするほうが大切だ」ということです。
 これを明らかにしておけば、「ダイエットできない自分はダメだ」と自己嫌悪に陥ることもなく、人から「根性なし」と非難されても堂々としていられます。

 物事のあり方をよく観察しても、なお諦められない人がいますが、そういう人は、物事が明らかになるまで、とことんやってみるしかありません。挫折するまで、クタクタになるまで、やってみるのです。

 好きな人を諦めるには、とことん好きになるしかありません。身もちぎれるほど好きになっても振り向いてくれないのが明らかにならないと諦められないのです。「好きな人にはその人の都合がある」ことが明らかにならないと諦められないのです。

 うまくいかなかった仕事を諦めるには、とことんうまくいくようにやってみるしかありません。それで失敗した時こそ、どこがいけなかったかを明らかにできるチャンスです。「あそこで、ああしたのがいけなかった。だから失敗するのは当たり前だ。しかたがない」と諦められ、次につながります。

 「明らか」を堅苦しく思うなら、「当たり前、当然、しかたない」でもかまいません。
 悪口を言われても「あの人は悪口を言えば自分が偉くなると勘違いしているのだから、私のことを悪く言うのも当たり前だ」と納得できれば気になりません。

 自分は正しいことを言っているのにわかってもらえない時は、「相手に理解する能力がないのだから、わからないのもしかたがない」と思うのもいいでしょう(相手をバカにしている点でおすすめはしませんが)。
 「他にも正しい意見があるかもしれないと様子を見ているようだから、今は私の意見だけを採用するわけにはいかないのも当然だ」と気づけば、イライラしないですみます。

 諦めざるを得ない挫折感にうちひしがれているだけでは、立ち上がれません。立ち上がるには、挫折した理由を明らかにする工程が必要です。そして、「しかたがない」と諦めて、立ち上がるたびに、「これはこういうことなのだ」と一つのことが明らかになります。

■自分ではどうにもならないことは潔くあきらめる

 世の中は、すべて原因に縁が加わって結果になる――これが、お釈迦さまが悟った「因果」の法則です。どんなことにも原因があって、それにさまざまな縁が加わって結果になる――そんなことは当たり前だと思うでしょう。

 家族のため(原因)に働き(縁)、働きすぎたため(縁)に、体調を崩します(結果)。
 ストレス発散のため(原因)にお酒を飲み(縁)、飲みすぎたために(縁)、二日酔いになります(結果)。

 子どもでもわかる因果関係ですが、多くの人(私の場合、家族)は、縁を因だと思うようです。体調を崩すと「働きすぎが原因だ」と呆れ、二日酔いに苦しんでいると「飲みすぎが原因だよ」と冷ややかに笑うというありさま。働きすぎも、飲みすぎも(私にとっては)縁で、因は他にあるのですがそこに触れてくれません。私の甘えは重々承知ですが、「家族のため」「ストレスがたまっている」という原因を自分で知っていることは大切です。

 さて、「因果」の法則は単純明快なのですが、面白いことが二つあります。

 一つは、縁や結果が新たな原因や縁になって、次々に連鎖していく点です。私が働くという縁が、家族にしてみれば「働いてくれてありがとう」と感謝する心を育てる縁になり、感謝の多い人生を送るという結果になるかもしれません。私の二日酔いという結果が縁となり、胃腸薬の販売拡大という結果になります。

 縁や結果が、次にどのような原因、縁、結果になるか予想できるものもありますが、多くは予想不可能です(私の働きすぎや二日酔いの経験が、この記事で使えるという結果になるとは思いもしませんでした)。

 もう一つ面白いのは「“縁がない”という縁」です。外出という結果を出すためには、外でやることがあるという縁が必要ですが、駅まで行く自転車が盗まれていない、バスや電車が止まっていないなど、自分ではどうしようもない縁も必要なのです。

 困難な状況になったら、自分の力ではどうすることもできない膨大な縁を思い、「なるほど、これではしかたない」と明らかにした上で、潔く諦めることは大切です。自分でどうしようもないことは悩まずに、さわやかに生きていきましょう。

SBCrOnline
2017年1月6日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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