小谷野敦「藝術作品の価値というのは、科学的に証明できるようなものではないのである」

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 私が、ある小説をいいとか悪いとか言うと、悪いほうはともかく、「いい」方について、理由が書いていないと言われることが多い。当人は書いているつもりなのだが、もっともそう言う当人が、現物を読まずに言っているなら、それは読んでみてくださいとしか言いようがない。では、読んだが面白くなかったぞ、という意味かというとそうでもないらしい。

 逆の現象もあって、ある人がある小説をいいと言う、だが私には良くないと思われて、これこれかくかくの欠点がある、と言う。それでも、いいと言う。そういうこともある。しかし小説とか映画のよさ、というのは、絵を見て美しいとかいいとか思うのとさして違わないので、感じる人には感じられ、感じられない人には感じられない。これが、下手に媒体が言語であるために、その「良さ」は言語で表しうると勘違いをするらしいのである。

 メルヴィルの『モービィ・ディック』は、日本では『白鯨』と訳されていて、しかしモービィ・ディックは鯨の名前なのだから、そのままの題で出すべきだと思う。だがそれでは売れないと判断されるのか、阿部知二以来少なくとも十点の邦訳が出ているが、今にいたるまで「モービィ・ディック」だけでだしたものはない。私は大学三年の頃、カネがなく、古書店で新潮文庫のカヴァーなしぼろぼろの田中西二郎訳を上下巻百円で買ったのだが、読み始めると夢中になって、西浦和で家庭教師をしていたその帰りもう暗くなった西浦和駅で電車を待ちつつもむさぼるように読んでいたのを覚えている。

 しかし、何がそんなに面白かったかというと、これを伝えるのは難しい。刊行当初、理解されずにメルヴィルは海洋冒険小説作家としての名声を失い、二十世紀に再評価されたと言うが、たぶん今でも、何がいいのか分からないという人はいるだろう。もちろんさまざまな解説はある。その博物学的な記述がいいのだとも言えるし、私はそこに女性嫌悪を見出したりしたが、そういう説明は結局でかい鯨を撫でるようなもので、面白くないと言っていた人が、そういう解説で、なるほど! と急に面白く思えるようになったりはしないものである。

 日本人は鯨については、捕鯨について西洋と対立したりしているせいか、久間十義の『世紀末鯨鯢記』など、『モービィ・ディック』のオマージュだかパロディだか、みたいな小説がいくつかあるが、やはり成功はしていない。あるいは宇能鴻一郎の『鯨神』のような捕鯨小説もある。

 文学でも美術でも映画でも演劇でも落語でも、藝術作品の価値というのは、科学的に証明できるようなものではないのである。もちろん、世間には、巧みな美文を弄して、つまらない作品でも褒めあげる人というのはいる。ないし、優れた作品でも、巧みに褒める人はいる。こういう「褒め文」は、しかし何ら証明にはなっていなくて、自分が好きなものを褒められれば嬉しく、そうでないとやや不快に思う、というものでしかない。

『芥川賞の偏差値』の偏差値も、私が決めたものだが、客観的基準がない、著者の主観だ、とか言わないでもらいたい。客観的基準なんてあるわけがないし、主観に決まっているからである。

小谷野敦(こやの・あつし)
1962年(昭和37)茨城県生まれ、埼玉県育ち。東京大学文学部英文科卒業、同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了、学術博士(比較文学)。大阪大学言語文化部助教授、国際日本文化研究センター客員助教授などを経て、文筆業。2002年、『聖母のいない国』でサントリー学芸賞受賞。著書に『悲望』『童貞放浪記』(共に幻冬舎文庫)、『ヌエのいた家』(文藝春秋)、『弁慶役者 七代目幸四郎』(青土社)、『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝』(新潮新書)、『文章読本X』(中央公論新社)など多数。

Book Bang編集部
2017年2月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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