現実と虚構の隙間を押し開く 杉田俊介

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野良ビトたちの燃え上がる肖像

『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

著者
木村, 友祐
出版社
新潮社
ISBN
9784103361329
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

現実と虚構の隙間を押し開く 杉田俊介

[レビュアー] 杉田俊介(批評家)

 これだ。この時代の文学はこれだ。真夜中に読みはじめ、群衆の気配と炎の熱が、夢の中へまでも押し寄せてきた。周縁や最底辺の現実が文学を切迫させ、小説が未来を更新する。文学にはまだこんなことが可能だったのか。たとえば星野智幸氏は、日本の文学はなぜ政治的主題を否認し回避したがるのか、という「その理由を追究することも含めてより意識的に政治を書く」タイプの小説を「新しい政治小説」と名づけたが(『星野智幸コレクションⅠ square』「あとがき」)、木村氏の決定的な飛躍作としての本作もまた「新しい政治小説」と言える。

 巻末の取材協力者や参考文献のリストを見ても、木村氏が野宿者の現場に足を運んで想像力を練り上げてきたことがわかる。木村氏は元々、近隣の野良猫たちを見守る活動をライフスタイルに組み込んだり、東京ヘテロトピアや路上文学賞にコミットするなど、地べたから、小さく弱いものの側から現実の矛盾を見つめてきた人である。だがそれだけではない。

 弧間川(多摩川)河川敷の野宿者コミュニティ。周囲にはタワービルが乱立し、大型ショッピングモールや日本初のゲーテッドタウンも完成している。世の貧困や社会的排除は日毎に悪化し、河川敷へ様々なタイプの人々が流入する。若者、DV被害者の女性、高齢の父親を介護する男性、母娘の二人連れ、外国人労働者、難民……。近隣住民とのトラブルも増え、野宿者排除と浄化運動が展開されていく。監視カメラが置かれ、自警団が暴力を振るい、猫が虐待され、ドローンが飛び、鉄条網が敷かれ、食糧不足が深刻になる。

 現在六三歳の柳さんは、野宿者歴二〇年以上。深夜に空き缶集めをしながら、オス猫のムスビと共に暮らしている。青森の三戸出身で、二〇代で離婚し、それ以来妻や息子とは会っていない。柳さんを取材に訪れたフリーライターの木下青年は、NPOなどへの寄付が趣味の頭でっかちで、当初は柳さんに慇懃無礼な態度も取っていたが、雑誌の廃刊や同棲中の彼女に愛想をつかされたことで、自らが住居を失い、柳さんに助けを求めて、野宿者コミュニティに仲間入りする。

 やがて河川敷はあたかもコルタサル「南部高速道路」のように、あらゆる被排除者たちが寄り集まって、半ば非現実的なメルティングスポットになっていく。国家からの独立を宣言し、機動隊と衝突するコミュニティなども出てくる。二年後の東京世界スポーツ祭典(作品の現在時は二〇一八年)に向けた再開発と美化運動、テロリスト対策の警備強化、景気が悪い発言を犯罪として取り締まる「不景気煽動罪」の準備など、圧倒的な暴力の予兆が高まり、煮詰められていく。コミュニティ内部にも分断や亀裂が生じ、日本人を特権視する一部の若者たちは、外国人を目の敵にし、ロヒンギャ(ミャンマーの中でもごくごく少数派のイスラム教徒のこと)のリハドに対する偏見や差別を振りまいていく。

 木下は自発的に見回りや声かけをはじめ、次第に信頼を得て、取りまとめ役を任されるまでになる。しかし、その時、ついに「あれ」が起こる――河川敷から火の手が上がり、小屋や家、そして人間が焼かれ、憎しみや怒りが複雑に連鎖し、大虐殺が巻き起こる。誰がやったのか。目的や意図は。犠牲者の数は。何もわからない。リハドは泣き叫ぶ。何者かが金を渡し、野宿者同士の殺戮を画策した。そして全てをガイコクジンのせいにしようとしたのだ、と。それが真実なのかどうかすら、わからない。ただ、市民や政府による憎悪が灼熱して燃え広がり、野宿者同士の中にすら潜在していた差別が炎上していく。

 近年、小林よしのり『大東亜論』や中島岳志『血盟団事件』などで描かれたように、時代や思想を超えて、世直しのためのテロ的な暴力に奇妙なリアリティがある。しかしこれから来る暴力やテロがどんな形を取るのか、僕らはそれをまだ知らない。日々、想像力をとぎすまさねばならない。陣野俊史は近著『テロルの伝説 桐山襲烈伝』で、マラルメの言葉を引いて言う。「桐山から送られた爆弾=小説は、未来のテロルを準備するだろう」。しかし政治に対する幻滅の中で、暴力は社会的により弱い人間=野良ビトたちへと差し向けられていく。ならば文学の詩的テロルとは何を意味するのか。暴力をめぐるこの矛盾をもしも断ち切れないならば。

 木村氏はこれまで、リアリズム的な細部を地道に積み上げ、青年の鬱屈が募る過程をたどりながら、それが最後に情念やロマンとして炸裂する光景を描いてきた(『海猫ツリーハウス』『聖地Cs』『イサの氾濫』等)。社会主義リアリズムVS革命的ロマン主義の対立を内破するようにして。木村氏の愚鈍な才能の凄みは、地味で平凡な生真面目さがそのまま、過激で猥雑なradicalの爆弾として炸裂するところにある。しかし本作はやはり新境地であり、青年たちの内的な鬱屈にとどまることなく、社会的排除を被った集団的な他者たちへのコミットのあり方が問われる。

 木下は最後まで「ただの通りすがりの者」という疎隔感を逃れられない。それは作者自身の無力さや躊躇をも意味し、本作の文体と構成上の仕掛けもそこから必然的に導入されたように思える。木下が最後に、失語の先につかみ出す「ヴィジョン」によれば、あの時、柳さんは炎のなかで猫のような生命力を発揮して生き延びたのであり、彼自身が獣へと生成変化して「同じ獣としての吠え声」をあげたのだった。では、猫に憑依する柳さんに憑依する木下に憑依する木村氏にとって、直接行動や支援ではなく、「書くこと」によって他者にコミットするとは、何か。今や虚構以上に非現実的な現実によって、全てが暴力的に押し流されていく。ならば、地べたの現実を誤魔化しなく見つめ、政治と文学、現実と虚構の「隙間」を押し開いて、現実以上にリアルな虚構という詩的爆弾によって、想像力の次元における非暴力的な革命――命を革める力のことだ――を試みるしかない。「最後の最後の、また最後まで」。それを作家の責任となす以外ない。

 陣野の前掲書は、詩的テロルの矛盾や臨界領域を描いた現代作家として、古川日出男、星野、木村の三氏をあげている。星野氏が三島由紀夫を、古川氏が最晩年の中上健次を思わせるとすれば、僕には木村氏の作風は武田泰淳のそれを思わせる。木村友祐という作家はいつか、彼自身の実存的かつ政治的モチーフにおいて、戦後文学の超臨界としての『森と湖のまつり』や『富士』を現代的に更新するような、大いなる長編小説を書くだろう。いや、これも人頼みではだめだ。批評もまた「新しい政治」の力を取り戻し、文学と批評の間に生産的な緊張関係を取り戻さねばならない。そのための批評としての「吠え声」を、「ヴィジョン」を、野良の獣同士として遠く共鳴させねばならない。

新潮社 新潮
2017年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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