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- 遥かな町へ
- 価格:1,540円(税込)
静かに心を打つ「家族」の物語
『遥かな町へ』谷口ジロー
去る2月11日。マンガ家の谷口ジローさんが多臓器不全で亡くなられた。69歳。一昔前ならともかく、現在では早すぎる死だ。
谷口ジローの画歴は長く、1970年代後半から双葉社、小学館などの青年コミック誌で精力的に作品を発表するように。関川夏央とのコンビによる『「坊っちゃん」の時代』(1987~96)では、第2回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。フランスで翻訳された『歩く人』(1990~91)によって、ヨーロッパのマンガファンからも注目されるようになった。97年には、フランスの国民的マンガ家・メビウスの原作で『イカル』を発表。2002年にはアングレーム国際マンガ祭で最優秀脚本賞、2005年には最優秀美術賞を受賞。2011年にはフランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエ章を授与されている。
追悼の意味を込めて今回紹介するのは、アングレームで最優秀脚本賞を受賞し、2010年にはフランスで映画化もされた代表作『遥かな町へ』である。
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物語は1998年4月9日朝の京都駅からはじまる。主人公の中原博史は48歳、団塊の世代のサラリーマンだ。仕事一筋で家庭のことは妻に任せ切り。この日も、前日まで出張先の京都で仕事。そのあと夜遅くまで飲んで、朝の新幹線で東京に戻るはずだった。だが、二日酔いの居眠りから醒めたとき、彼が座っていたのは新幹線ではなく、京都から倉吉に向かう「スーパーはくと」の座席だった。京都駅のどこかで間違えてしまったのだと中原は考えた。だが、彼にとって倉吉はふるさと。なぜか途中下車して京都までもどる気持ちになれないまま、ふと思い出したのは、22年前に48歳で死んだ母のことだった。中原が中学2年生の時に父が突然失踪し、その後、母は女手一つで中原と彼の妹を育て上げたのだった。
倉吉の駅で降りた中原は、生まれ育った町をさまよい、気が付けば母親の墓がある菩提寺にたどり着いていた。そして、墓前の中原は突然、現在の記憶を持ったまま、中学2年生の春にタイムスリップしてしまう。体も中学2年生になっているのだが、記憶だけが大人になった自分なのだ。町に戻ると、町もかつての風景に変わっており、家の前には父親の姿。中に入ると妹と祖母、そして、あの母がいた。
1963年の倉吉の町の描写が素晴らしい。奥行きのある街並みが細部まで描き込まれ、空気や匂いまでもが伝わって来る。読者をあの時代の地方都市に誘(いざな)ってくれる見事な描写力である。
その夜、中原は48歳の自分が暮らしていた我が家の夢を見る。現実の家族の会話がはっきり聞こえるのに、そこに中原の姿はない。そして、目覚めれば自分は中学2年生の日に戻っている。奇妙な現実を受け入れ、48歳の記憶のままもう一度中学2年生としての生活をはじめた中原。今となれば勉強は楽しく、仕事のことを考える必要もなく流れていく自由な時間が幸せだった。しかし、この14歳の“時”の流れは記憶する以前のそれとは微妙に変わってきていた。得意ではなかった体育が得意になり、以前はその横顔を眺めるだけだった憧れのクラスメート・長瀬智子が彼に話しかけてくる……。喧嘩をしたことのなかった相手と喧嘩になり、登場が2年後になるプロレス技「コブラツイスト」をかけて勝ってしまう。
48歳の中原にとっては、酒やタバコも大丈夫だし、原付バイクだって動かせる。ただ、14歳の体がついていかないだけだ。
自分の存在が、未来を変えてしまうのではないか、と不安になる中原だが、できることなら変えたい未来もあった。それは、その年の夏に起きるはずの父の失踪を食い止めることだった。
作品のテーマになっているのは「家族」である。母は不幸ではなかったのか? 父は何故自分たちを捨てたのか? 自分自身の過去をもう一度体験しながら中原は、家族の絆や生きることの意味を考え、父や母の人生に大きな影を落とした戦争という存在についても知る事になる。二度目の“時”によって中原は、本当の大人になれたのかもしれない。読者の皆さんには、ぜひともそのプロセスを中原とともに歩んでいただきたい。
作中には、同級生として少年時代の谷口ジローを思わせる人物も登場する。マンガ家志望の浜田隆である。浜田はほぼ15年後にマンガ家デビューすることになっている。谷口のデビューは1971年だが……。
おそらく、谷口自身が、この作品を描くことによって、過去の自分自身を追体験しようとしたのではないだろうか。がむしゃらにマンガを描き続けた今を、過去の自分の視点から見直そうとした。そう思えてならない。
今頃、谷口の魂は懐かしい少年時代の町をのんびりとさまよっているはずだ。締切のない自由な時間を楽しみながら。
中野晴行(なかの・はるゆき)
1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。
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