春を感じさせる珠玉の短編マンガ『耳は忘れない』森泉岳土|中野晴行の「まんがのソムリエ」第33回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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マンガの新たな感性が詰まった短編集
『耳は忘れない』著者:森泉岳土

 年上の知人から、退職の挨拶状が届いた。定年延長は65歳までなのだが、1年早くリタイアを決めたのだという。子どもはもう独立していて、夫婦それぞれの両親もかなり前に亡くなっている。数年前から、定年後は故郷で地域おこしのボランティア活動をするつもりだと聞いていたが、予定通り生まれ育った山口県に引っ越すとのこと。実家はもうなくなっているので、借家を探して、いい物件が見つかったそうだ。住み慣れた東京を離れることに難色を示していた奥方も、ようやく説得に応じてくれたらしい。第2の人生にエールを送りたい。
 春は出会いと別れの季節。そして新しい門出の季節でもある。我が家でも姪の就職が決まって、簡単なお祝いがあったばかりだ。しばらく会社の寮に入るというので、弟夫婦は慌てている。弟だって、信州の大学に進学してからは実家に寄り付かなかったくせに。
 さて、今回紹介するのはこのシーズンにふさわしい短編集。森泉岳士の『耳は忘れない』である。

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 作者は、イラストや映像関係で活躍後、本書に収録された「森のマリー」(『コミック・ビーム』2010年9月号掲載)でマンガ誌デビューを飾った。紙に水で線を描き、水の上に墨を落として仕上げるという独特の技法が「マンガ表現の新しい可能性」として注目された。本書にはデビュー作から、2014年の描き下ろし作品「耳は忘れない」まで6編が収録されている。

 巻頭の表題作「耳は忘れない」は、1994年に作者が体験した実話をもとにした作品。大学に入ったばかりの「僕」はインド旅行に出かける。彼は遠い異国の地で、多くの言葉に耳を傾け、結衣というバックパッカーの女性と出会う。帰国後、ふたりは再会するが……。ラジオから流れる、マライア・キャリーやプリンス、エイミー・グラントなどなど、懐かしいサウンドに切ない思い出が重ねられた不思議な魅力に満ちた物語だ。
「四季も日々も」は本書の中で個人的にいちばんお気に入りの作品。舞台は小田急線の地下化に伴う駅前再開発が始まる前の東京・下北沢。人生二度目のプロポーズを受けた加奈子が新しい人生をスタートさせるまでが、淡々と、そして暖かく描かれたストーリーだ。小学校のときの最初のプロポーズの思い出。伴侶となる名取くんとのこと。家族との別れ。ふたりの新しい暮らし……。指で作ったうさぎと犬の影絵を使って、ふたりが新婚旅行のことを語るラストがいい。繰り返し繰り返し読むとじわじわと滋味が染み出てくる。
 デビュー作「森のマリー」は、少女・マリーが命を落とした場所を訪ねて森の中に入った青年の物語。大きな木の前で、森を離れ町で暮らす彼は、マリーの幻がつぶやいた「私は森の一部になり あなたは町の一部になる」というひとことで、自分が変わってしまったことに気づかされる。そんな彼に対して友人が言うひとことが心に残る。
「同じでいつづけるなんて無理な話だよ だったら良いほうに変わりゃあいい 枝分かれしてもまたどこかで交差するさ」
 短編アニメにして欲しいくらいに映像的な作品だ。
「葡萄の記憶」は、家族と離れておじいちゃんの葡萄園でひと夏暮らすことになった少女のお話。大人たちが仕事に出てしまったあと、カーヴにひとり残った少女が、自分の生まれ年のワインを飲むと、そこに見えてきたものは、彼女が生まれる直前の家族の姿……。おじいちゃんが少女に聞かせる、地上に愛(エロス)が生まれ満ちる話が素敵だ。
「盗賊は砂漠を走る」は、領主を殺して命の泉の地図を手に入れた盗賊が主人公。砂漠を越えて彼が見つけたのは……。命の水の正体がとても皮肉だ。生きることの本質をみごとに描いた作。
 ラストの「小夜子、かけるかける」は、一種のボーイミーツガールもの。正しくは、ガールミーツボーイかな。
 幼い時に母親が聞かせてくれた、竜のジョーイとともに双子の妹・リンダを探すお姫様・ヴェラの物語を、自分の手で絵本にしようとする少女が主人公。いつもいつも夢中になって絵本を描き続ける彼女だったが、小学校6年のとき成績不振を理由に、お絵描き教室のかわりに学習塾に通わされることになる。そこで出会った同い年の少年・卓也が見せてくれたドイツの画家ホルスト・ヤンセンの作品に圧倒されて一度は絵をあきらめた小夜子。だが、中学に入ったある日、幼い時にヴィラたちの物語に出てくる海になぞらえていた近所の川で見たのは、竜のジョーイの姿だった。導かれるように物語の続きを描き始めた小夜子。小夜子と卓也の新たな冒険につながるラストシーンが秀逸だ。

 読み終わって思ったのは、自分自身もなにか新しいことはじめなくちゃ、ということ。春は新たなチャレンジの季節でもあったのだ。

※カーヴ:ワインの貯蔵庫のこと。
※ホルスト・ヤンセン(1929~95):ドイツ・ハンブルグ生まれの画家。「デューラーの再来」とも呼ばれたが、葛飾北斎の影響を受け自らは「画狂人」と名乗った。

中野晴行(なかの・はるゆき)

1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2017年3月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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