寄藤文平は『鏡の中の物理学』を読んでこれからの世界を想像するヒントを感じた

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寄藤文平は『鏡の中の物理学』を読んでこれからの世界を想像するヒントを感じた

[レビュアー] 寄藤文平(アートディレクター)

寄藤文平
寄藤文平

 どこかで、内側が全面鏡になっている球体があって、その中に人間が閉じ込められるという小説を読んだ。誰が書いた話だったか、中に入った人はやがて発狂するといった筋立てだった気がする。
 鏡の球体の中に入ったら自分がどのように映るのかを想像すると、「見える」ということや、見えている世界のルールについてまるっきり無知なのだと気づく。顔は凹面鏡みたいに拡大されるのか、それが背後に写って、また正面に映る時、上はどうなるのか、下はどうなるのか……球体の中に立つ自分の姿をいくら想像してみても、鏡に張り付いたアメーバみたいな姿しか浮かんでこない。
 想像力は無限だというけれど、自分の経験や常識的な知識で想像できる世界には限りがあって、たとえ優れた観察眼を持っていても、卓抜した描写力を持っていても、それだけでは絶対に描けない世界がある。その限界を超えて未知の世界を描き出すためにはそれにふさわしい想像の方法が必要で、僕にとって数学や物理学というのはそのような想像をあつかう学問だ。
 朝永振一郎は素粒子の研究者で、僕にとっての「ザ・ビッグワン」である。それについて何も知らないけれど、自分にとって重大な「何か」であることは直感されているという、そういう存在だ。その分野で同じ時代に生きた人に、岡潔や湯川秀樹といった魅力的な人たちがいるけれど、岡潔は抜き身の刀みたいで素手で触わると怖い感じがあるし、湯川秀樹はピシッと鞘に収まった刀といった感じで、触ると指紋がついてしまいそうだ。その点、朝永振一郎は触っても大丈夫な刀という印象があって、いくつか絵も残しているけれど、その絵の雰囲気の中に自分が隣に座る余白みたいなものを感じる。
 僕の勝手な印象はともかくとして、この『鏡の中の物理学』には、朝永振一郎の世界を想像する方法やそれによって見えてくる世界が描かれている。柔らかい語り口でわかりやすく書かかれているけれど、その優しさに導かれてノコノコついていくと鏡の球体よりもさらに奇妙な素粒子の世界に連れ込まれて、ポンとそこに放置にされてしまうような厳しさもある。
 正直、まったく理解が追いつかないところも多かった。でもこの世界を想像するためのいろいろな方法や、まったく新しい把握の仕方があるということは理解できた。おそらく、この本の伝えたい眼目もそこにあるのだと思う。鏡の中の物理学とは、未知の世界の想像学なのだ。
 最近、ネットの世界と現実の世界が重なり合って、自分とか私というものの輪郭があいまいになっている気がする。ネット世界の自分と、現実世界の自分は、ある部分では別々だが、ある部分では同じだ。その感じは、光がある観点からは粒子であり、ある観点からは波であるというのにも似て、どちらがどちらと切り分けるような素朴な方法では捉えられない。この本が書かれたのは40年前だが、これからの世界を想像しようとする時、たくさんのヒントが示されているように思う。

太田出版 ケトル
VOL.33 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

太田出版

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