又吉直樹、『劇場』で魅せた『火花』からの深化

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劇場

『劇場』

著者
又吉, 直樹, 1980-
出版社
新潮社
ISBN
9784103509516
価格
1,430円(税込)

書籍情報:openBD

『火花』より一段深化した恋愛小説仕立て

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

 嫉妬にまつわる小説を偶々二つ読んだ。村上春樹の『騎士団長殺し』と、本作「劇場」である。しかし対極的なのは、一つに性描写だ。前者には過剰なセックスシーンがある一方、後者は「恋愛小説」と銘打たれ、小劇団の若い男と女優志望の女が同棲するにも拘わらず、性的な描写が見事なまでにない。アセクシャル(無性的)関係かと思ってしまうほどだ。二つ目の違いは、自分の嫉妬に対する姿勢。村上はそれを暴力的な闇の感情、ファシズムなどにも繋がる邪悪な父性原理と結びつけて対峙し、封印すべく戦う。又吉は嫉妬という魔物に蝕まれ、その渦にもみくちゃにされながら、未練がましく、いじましく、あられもなく堕ちていくさまを晒す。人の恥辱の感覚を描ききった町田康の『告白』を思いだした。

 高卒後、上京してきた「永田」は相棒と共に劇団「おろか」を旗揚げする。前衛的な芝居を書くがうけず、団員たちも一斉に辞めた。原宿で出会った「沙希」と同棲し、彼女を芝居に出演させて小さな評判をとるものの、尖鋭なセンスで競合をごぼう抜きにしていく劇団「まだ死んでないよ」の舞台に打ちのめされる。この公演を描写した数ページが真に迫って出色で、これなら売れるわ、と納得。永田は妬みと屈辱と自尊心にずたずたにされ、沙希との関係も悪化する。小理屈をこねまわすヒモ男と、聖愚者のようになんでも受け入れてくれる恋人。まさに聖女の、地獄のような優しさが試練の中核にある。それゆえ「恋愛小説」なのだ。東京で暮らす男女の物語はすでに無数の表現者の手で描かれてきた。しかし又吉は「この主題を僕は僕なりの温度で雑音を混ぜて取り返さねばならない」と気丈に宣言する。

 前作『火花』は、芸に対して長年練りあげてきた思索の跡が窺える、鮮やかな文芸批評小説だったが、それは恋愛小説仕立ての本作も同様だ。小説としては一段深化したと言える。

新潮社 週刊新潮
2017年4月20日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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