余計なモノを持たずに「ためない」ブッダの知恵

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モノが捨てられない現代人。しかし、「モノを捨てていっても、問題の解決にはならない」と語るのは、スリランカ上座仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラさんです。シリーズ累計40万部超の『怒らないこと』の著者でもあり、最近『ためない生き方』(SB新書)を著したスマナサーラ長老に、「ためこみ」というやっかいな問題について語っていただきました。

ためこんだモノの奴隷となる現代人

 モノをためこむことはよくないことだ、とよくいわれます。無駄なモノを捨てたり、捨てずに残したモノをきれいに整理整頓して片づけたりすることは、日本社会では、美徳の一種となっているようです。

 たしかに、モノを多く抱え込むと、それが手かせ足かせとなって行動や考えを鈍らせ、ストレスの原因となって、果ては怒りや不安、嫉妬などの悪感情にさいなまれることになります。つまり、ためたものの奴隷になってしまうのです。

 ですから、さまざまなモノに囲まれて日々生活している現代人は、ついためこもうとする習慣を改め、手放す方法を考える必要があるといえるでしょう。

 ならば、なんでもかんでも捨ててしまえばそれで済むのかというと、決してそんなわけではありません。「ためこみ」をやめて、モノをどんどん捨てて行っても、必ずしも問題の解決にはならないのです。なぜなら、「ためこみ」も「捨てる」も、結局は、心の問題に帰着するからです。

 ここでは、「ためこみ」をやめ、すべてを捨てて山奥に入った、あるインドの修行者に関する物語から、「ためこみ」と「捨てる」の問題の本質に迫ってみましょう。

全財産を捨てて山に入った修行者の話

 昔々、ある人が、「心が汚れてしまうから、家も財産もいらない。心を清らかにしようとする人間にとって、そういうものは迷惑だ」と言って、すべてを捨てて山奥の森の中に入ってしまいました。

 でも、その人はひとつだけモノを持って行きました。それは何かというと、腰に巻く布です。今の寸法でいえば1メートルぐらいの長さの布をひときれ腰に巻いて、森に入ったのです。それ以外には何も身にまとっていません。草履も履かずに裸足です。

 腰巻1枚になったその人は森の中で一生懸命修行に励みます。

 でも毎日露天で寝るというわけにはいかず、あちこちから枝や葉っぱを拾ってきて、それで小さな家をつくり、そこで寝起きしていました。
 ところが、ある日、朝起きてみたら、腰巻の布に、何かに噛まれたような穴ができているのに気がつきました。
 次の日も、起きてみたら、また穴ができています。

「あれ、どうしてだろう?」と家の中を見たら、ネズミを見つけました。

 ネズミが家に入り込んで、布をかじっていたのです。
 修行者は思いました。

「これはたいへんだ!」

 布はこれ1枚きりしかないので、もしこれが穴だらけになって身につけられなくなったら、裸でいるしかなくなってしまうからです。

 そこで「どうしよう?」と考えたとき、思いついたのは、猫です。

 家の中に猫がいれば、ネズミは猫が怖いので、寄ってこない。
 そこで修行者はいったん森を出て、村に行って猫を1匹拾い、また森に戻りました。
 こうして、猫のおかげで、ネズミは寄り付かなくなりました。

腰に巻いた布1枚が原因で、結局還俗する羽目に

 ところが、ここでまたひとつ問題が起きます。

 それは猫の餌です。修行者自身は果物や山の実などを日頃食べていますが、猫はそんなものは口にしません。かといって、好物の肉をあげるわけにはいきません。修行者は、出家している身ですので、狩りをするわけにはいかないのです。

 そんなわけで、猫は自分でエサを探さなければいけないのですが、でも、森の中にはなかなかいいエサが見つかりません。
 かといって、猫を村に帰してしまったら、またネズミが寄って来てしまいます。

 そこで仕方なく修行者は、村に行って猫のエサをもらって来ることにしました。いったん山を降りて村に入り、托鉢(たくはつ)をしてまわったのです。そうして村人から牛乳をもらうと、森に戻り、猫にあげました。

 ところが、また問題が起こりました。

 猫のエサのために村に出かけていると、それで1日が終わってしまうのです。そして、それを続けていると、肝心の修行のための時間がどんどんなくなってしまうのです。
 そこで今度はこう考えました。

「牛を1頭もらって、森の中に連れてくればいいじゃないか。そうすれば、猫のエサのためにいちいち山を降りる手間が省けるのだから」

 そうして牛1頭を実際にもらってきて、森で牛を飼い、エサを食べさせ、乳をしぼって、猫にあげました。
 ところが、猫にエサをあげるのが簡単になった代わりに、今度は牛の世話をしなくてはならなくなり、また修行の時間がなくなってしまいました。

 そこで、修行者は村から男の子をひとり連れて来て、その子に牛の面倒を見させました。

 ところが、しばらくすると、その子はずっと森の中にいることに飽きてしまい、あちこちに遊びにいったり、帰ってこなかったりするようになってしまいました。

 そこで修行者は、今度は「この子はもう青年でもあるし、奥さんでもいれば遊びに行かずにおとなしくなるだろう」と考え、村に行って若い女性を見つけ、青年のお嫁さんとして森の中に連れてきました。

 こういうわけで、結局、修行者は、いろんな動物や人の面倒をみなくてはならなくなってしまったのです。

 やがて修行者は「こんなことを続けていたらキリがない。普通に仕事をしてみんなを養おう」と言って、山を降りてしまいました。

 すべてを捨てて修行に専念するつもりで森に入ったはずなのに、元通りの生活に戻ってしまったのです。出家したつもりが、結局、還俗(げんぞく)することになってしまったのです。

捨てるべきは、モノではなく、執着心

 せっかく心を清らかにしようと決意して、全財産を捨てて森に入ったのに、なぜ修行者は、修行を続けることができなくなってしまったのでしょうか。何を間違えてしまったのでしょうか。

 じつをいえば、この修行者はいちばん肝心なものを捨てなかったので、失敗してしまったのです。
 それは何でしょうか。

 この物語をよく読めばわかると思いますが、修行者は正確にいうと「全財産」を捨てたわけではありません。たったひとつだけ、腰に巻く1枚の布というモノは捨てませんでした。

 でも、布1枚を捨てなかったから、失敗したというわけではないのです。

 修行者が還俗して元の苦しい世界に戻ってしまったのは、布1枚に対する”執着”を捨てなかったからなのです。「この布きれ1枚がなくなったら、たいへんだ。この布を守らなきゃ」という思いが、言い換えれば、ためこもうとする気持ちが、失敗の原因だったのです。

 この修行者は、本当に正直な気持ちで修行に励みたいと思って、「ためる」生き方におさらばし、家や財産も捨てて山に入りました。その心は決してインチキではありません。でも問題は、モノは捨てたけど、執着は捨てなかったということなのです。捨てるべきものは捨てずに、捨てても捨てなくてもどうでもいいものを捨てていたのです。これが、この物語の言いたいことであり、お釈迦さまの教えでもあるのです。

無責任にモノを捨てても幸せにはなれない

 心を清らかにしたいというのであれば、森に入らず、村や町の家の中ででもできたはずなのです。都会に暮らしていても、執着を捨てれば、心を清らかにする生活ができたはずなのです。ところが、この修行者は、自分の心が汚れるのは、執着という心ではなく、モノのせいだと勘違いしてしまったのですね。だから、結局、布1枚をきっかけに、元の生活に戻る羽目に陥ってしまったのです。

 余計なモノを持たずに「ためこみ」をしないという生き方は、俗世間では人間の理想となっているかもしれません。でも、ただ無責任にモノを捨てるということは、決して執着を捨てることにはなりません。それはかえって怒りや後悔、嫉妬などの悪感情をもたらすことにもつながってしまいかねないのです。

 最終的にはモノではなく、モノに対する執着そのものを捨てなければ、聖なる道を歩むことはできず、幸福に生きる技を身につけることができない──これがブッダの智慧なのです。

SBCrOnline
2017年6月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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