遠山正道は『饗応夫人』で太宰治が著した理屈や理解を超える人間の意志に惹き込まれた

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遠山正道は 『饗応夫人』で太宰治が著した理屈や理解を超える人間の意志に惹き込まれた

[レビュアー] 遠山正道(実業家)

遠山正道
遠山正道

 この短編の凄味を決定付けるのは始まって直ぐ冒頭の一文なのであるが、映画で言えば庭の椿の葉越しに抜ける青い空からグーッと引いてパンすると、玄関先に鳥打帽に髭をこさえている来客の姿からカメラは夫人の家の玄関に入り込み家政婦の動きと同化しながら夫人の部屋に侵入し、家政婦が誰々様が見えましたと申し上げるや否や夫人は青褪めた顔の白目を引きつらして悲鳴のような声を上げながらカメラは夫人のアップをグルリグルリと周りを舐め上げるように、頭の錯乱、心の動揺、行動の無秩序をすっかり見抜いてしまっている下から目線で執拗に追うと、次は夫人が廊下をバタバタ走り台所に入りあたふたしている内に案の定、皿を割り家政婦に謝りながら客間に向かっていくところを今度は仁義なき戦いの手持ちカメラ的に引いたり寄ったりしながらそして客間の扉を開け向こうに来客の赤ら顔が映りこんだところでようやくシーンが切り替わるまで一発の長回しで撮りきるかのように、冒頭の一文は物理的に息もつかせぬ長くかつ逼迫したものなのである。
 そしてその一文のなかでもひと際印象的なのが「泣くような笑うような笛の音に似た不思議な声を挙げてお客を迎え」の表現である。まさに悲鳴のような声を引きつらせた笑顔からピロピロと発せられるとこちらの心拍数まで上がってくる。
 家政婦から見たそれらの状況は痛々しく、図々しい笹島先生という客は益々図にのり女や仲間を連れては家に上がりこみ宴会を開いてそのまま酔って泊まっていく、その間夫人はまさに饗応に追われ、準備やら接待やら片付けやらに勤しみ、そして、金をどんどんと吐き出し、身体は蝕まれ、ついには、庭先に吐血するのである。
 私だけではあるまい。
 読者の誰もがこんな理不尽な対応は止めるべきだし、ハッキリと意志をもって笹島先生にNOと言わねば、むしろ夫人の対応こそが笹島先生を増長させている要因であると本の中の夫人の肩に手をおいて説教したくなる。
 そもそもこの短編との出会いは風呂である。週末の朝の長風呂では本を読むことが多いが、妻が聞くNHKラジオ文芸館を聞くでもなく聞いて、かつて明川哲也氏の「花丼」を聞いて涙したこともある。なので、風呂で、音声の小説を聞く、というのも一興かとスマホでダウンロードしたのがこれである。二十三分の朗読を聴き、これは尋常ならざるものと感じて、先ずはスマホで全文ダウンロードして読み、そして文庫を買った。
 やはり冒頭の長回しの一文がほぼ文庫一頁分であることを確認するのにもやはり文庫が一番である。
 さて、冒頭ばかり取り出したが、何と言っても圧巻は最後の十行である。
 あまりの展開に、理屈や理解を超えて、涙が出てくる。
 冷静に理解しようとすれば、今でも分からぬ。むしろ分かりたくもない。ただ、そこにあるものは「意志」なのだと思う。そして意志というものは、人を惹きつけてやまぬのである。

太田出版 ケトル
vol.35 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

太田出版

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