人はみな「悩み」を彷徨う旅人 『舟に棲む』つげ忠男|中野晴行の「まんがのソムリエ」第48回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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売れない作家の奇妙な一期一会を描く
『舟に棲む(1)』つげ忠男

 久しぶりにジェット船に乗って伊豆大島までの日帰り旅をしてきた。戻ってきて、ふと読み返したくなったのが、つげ忠男の『舟に棲む』だった。
 つげ忠男は、太平洋戦争が始まる直前の1941年7月2日、柘植家の三男として伊豆大島で生まれた。父は旅館の板前。次兄はのちのマンガ家・つげ義春。そんなことを思い出したからかもしれない。
 忠男が生まれてまもなく一家は父を残して千葉県大原(現・いすみ市)へ転居。大島に単身残った父は、持病の悪化で42年に急死。その後、東京の立石に移り住んだ忠男たちは、そこで終戦を迎える。

 つげ忠男のマンガには、戦後混乱期の立石での記憶が色濃く出ている。登場する失業者やチンピラ、売春婦、そのほか得体の知れない連中は、中学校を卒業した忠男が勤めた製薬会社(実態は血液銀行)に、血を売りにやってきた人々がモデルになっている。作品のトーンも、内省的な中にそこはかとないユーモアを感じさせる兄・義春とは違って、代表作『無頼平野』のようにバイオレンスが横溢し、ハードボイルドでクールだ。
 しかし、つげ忠男作品の中では最大の長編である『舟に棲む』は少し違う。全編に漂うのは去りゆく時代への惜別と郷愁……。その意味でも、異色作と言えるだろう。

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 舞台は近所に利根川が流れる千葉県の小都市。主人公の津田健太は小説家である。生まれはつげと同じ1941年。作品上では57歳。会社勤めだった37歳の時に文芸雑誌で新人賞を受賞。妻は2年後に、夫を小説に専念させるために今の土地にジーンズショップを開店。津田も勤めを辞めて筆一本に賭けたが、地味な作風のためか売れず、現在の仕事は、エッセイや趣味の釣りに関する雑文ばかり。「店があるから生活できたんだ なんだかオレはヒモみたいな男だ」と煩悶している。
 そんな津田が、小さな川舟を手に入れるところから物語は始まる。川漁師の坂本剛馬から古い舟を8万円で譲り受けたのだ。妻や実質的に店を切り盛りする息子、OLの娘は津田のもの好きに呆れながらも、反対はしない。
 かくて津田は、手に入れた舟に簡単な屋根を付け、息子のキャンプ用品を運び込み、そこで生活ができる準備を整えた。彼の頭には、少年時代に見た船上生活者の姿があったのだ。津田は、月に3日だけでも舟で寝泊まりしながら、長編小説の構想を練るつもりだ、と家族を説得するが……。

 マンガは、津田と釣り仲間や川で巡りあった一期一会の人々、言霊のような得体のしれないものたちとの交流を淡々と描きながら進んでいく。
 好きなのは、河川敷の小高い場所の掘っ立て小屋に住み着いた二人組、利根川北斎老人と彼の弟子・山本写楽青年との交流を描いたエピソードだ。
 北斎老人は戦争で出征中に妻と生き別れ、終戦後は日本中を漂白するようになった。写楽青年は、8年前に老人に出会ってから旅を共にしている。津田の舟を無断で拝借したお詫びだ、と小屋に誘われた津田と釣り仲間のトメさんこと小山留男は、小屋から川の風景を眺めながら話を聞くうちにふたりの生き方に惹かれていく。
 しかし、台風が上陸した日、ふたりは再び風のように利根川の河川敷から去っていく。
「あの小説家も変わった人でしたね 先生 あの人があんな舟の暮らしをする本当の理由は何なのでしょう?」
「さてな………心の闇………人は皆その闇をさまよう旅人なのだよ………」
 土手のススキ野原を行くふたりの会話が読後いつまでも心に残る。

 作品全体のテーマは、心の闇をさまよいながら生きていく人間の煩悩だろう。津田は肉体的な衰えを感じ、時には死を意識しながら、それでも書かなければならないと考えている。そして、舟で暮らすことは、書くためではなく、書く事からの逃避ではないのか、と内心気づいてもいる。
 第2巻では、津田にC型肝炎が発見され、ますます死は身近なものになる。一方で、津田の過去の作品に日が当たるかも知れない、という展開も待っている。
 津田の少年時代の思い出の中には、病弱で癇の強い二番目の父親に毎日のように殴られたことなど、つげ本人の少年時代と重なる挿話も多く登場し、私小説的な作品と読むこともできる。さらに、第2部では、小説の中で津田が書いてきたのも戦後の混乱期だったことが語られ、なぜ、この時代を書くのかの答えも、釣り仲間との酔談で明らかになる。その意味で、この作品はマンガ家・つげ忠男の遺書ということになるのかもしれない。

 本作は全4部の予定で描き始められ、掲載誌の休刊で2部で中断している。第2部の末尾には「発表の場所があろうとなかろうと、描き継ぐつもりでいます」と書いているが、まだ実現には至ってない。早く続編を読みたい思いもあるが、遺書が完結してしまうのは怖いような気もしている。

中野晴行(なかの・はるゆき)

1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2017年6月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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