明治時代、「異文化」日本に飛び込んだ女探検家がいた――『ふしぎの国のバード』|中野晴行の「まんがのソムリエ」第57回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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明治時代に「秘境」日本を旅したイギリス人女性
『ふしぎの国のバード』著者:佐々大河

 外国に出かけると神経を使うことが多い。なによりも言葉がわからないのが一番しんどい。前回でも紹介した中国・長春での学会は、飛行機の遅延やキャンセルが相次いで連日スケジュールがむちゃくちゃになり、帰国も1日半以上遅れるという状態。札幌の大学で中国語を教えているSF作家・立原透耶さんと一緒だったおかげで空港での応対など一から十までお任せできたが、もし自分だけなら、途方にくれていたに違いない。
 風習の違いだってある。立原さんからは何度も「それは中国ではやってはいけないことですよ」と注意を受けた。わからないところに行くのは、ある種の冒険なのだということがよくわかった。
 今回は、明治時代の日本を旅したイギリス女性の異文化交流マンガを紹介しようと思う。佐々大河の『ふしぎの国のバード』だ。

 ***

 主人公はイギリスの女性冒険家、イザベラ・バード。1878(明治11)年5月20日、船で横浜に到着した彼女は、ヨーロッパ人からは、未開の地と考えられていた日本への第一歩を踏み出したのだった。
 イザベラ・バードは実在の人物で、1831年にイギリス・ヨークシャー州の牧師の長女として生まれ、1904年に亡くなっている。1856年にはアメリカ・カナダの旅を綴った処女作『The Englishwoman in America(日本題/イザベラ・バード カナダ・アメリカ紀行)』を発表。その後も世界中を巡って、各地の知られざる文化や風習を紹介し、1983年には英国地理学会特別会員にも選ばれた。
 アジアでは、日本のほかに、朝鮮、清国(今の中国)、チベット、さらにはペルシア(今のイラク)にまで足を踏み入れている。
 マンガのベースになっているのは、彼女が1880年に発表した『Unbeaten Tracks in Japan(日本題/日本奥地紀行)』という本。直訳すると「日本での前人未到の旅」だが、文字通り彼女の旅は、その当時の欧米人は誰もたどったことのない行程だった。6月に横浜を発った彼女は、日光を拠点に会津道、越後街道を使って新潟に入り、そこから、山形、久保田、青森、函館を経由して、9月には蝦夷地に入り、アイヌの拠点集落がある平取にたどり着く。中でも会津道は、日本人でもほとんど利用しない山また山の難所。男の探検家でも尻込みするハードな旅を、女性がやってのけたのがすごい。

 このマンガがユニークなのは、全てがイギリス人・バードの主観で描かれているということだろう。だから、日本人キャラクターの吹き出し部分にはなにやら得体の知れない文字が入っているだけ。かわりに、英語で語られる部分が、普通の日本語だ。これは、言葉のわからない国に行った時の不安が、日本の読者にも伝わるように表現されているのだ。中国で、まわりの言葉が分からずに不安だった私には、この雰囲気が分かりすぎるくらいによくわかる。
 横浜で通訳を探す彼女の前に現れる、自称「英語が話せる日本人」たちの吹き出しの中が「ミー チョバチョバ パラパラ! イジンサン アリマス!」や「ミー モシ キンチョー アリマセン モット ウマイ ハナス! アリマス!!」というのは彼らの英語がイギリス人にはこう聞こえている、という表現。まあ、私の英語もこんなもんだろう。
 通訳を探すことを諦めかけた彼女に「失礼ですが ミス・バードでいらっしゃいますか?」と声がかけられるシーン。これは、英国人にこのように聞こえている――つまりは、完璧な英語ということになるのだ。
 このお約束を頭に入れておくと、このマンガの魅力は何倍にもなるはずだ。

 声をかけてきた伊藤鶴吉は、幼い時から西洋人の従者をしてきたという日本青年。しかも、彼女が目指す蝦夷地にはガイドとして船で行った経験もあるという。伊藤(イト)を通訳兼ガイドとして雇った彼女は、いよいよ前人未到の旅に出発する。
 歴史上の人物とは言いながら、マンガの中のバードや伊藤のキャラクターは大きく変更が加えられている。そもそも、史実通りならバードの年齢は42歳のはず。しかし、マンガのバードは、見た目も若いが、行動もキャピキャピしていて20代半ばの印象。「ぼくの仕事はバードさんの通訳と身の回りのお世話であり いかなる地であろうとも それが変わることはない」と言い切るクールでかっこいい伊藤(イト)も、マンガのキャラクターと割り切るべきだろう。

 混浴の習慣や、旅の途中で立ち寄った集落の貧しい暮らしぶり、外国人である彼女に対する人々の好奇心、ノミに苦しめられる安宿など、彼女にとって日本の旅は驚くことばかり。伊藤だって彼女にはよくわからない部分があるし……。まさに、カルチャーショックの嵐。しかし、笑顔を忘れず前に前にとアグレッシブに道を進めていくバードが素敵だ。
 そんな彼女の言葉「誰も選ばない道だからこそ 進む価値があるんだわ」は、現代に生きる私たちにも大切な言葉だと思った。

中野晴行(なかの・はるゆき)

1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2017年8月30日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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