介護者に思いを致す社会に……【介護殺人】「母親に、死んで欲しい」――当事者たちの告白

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

「母親に、死んで欲しい」

『「母親に、死んで欲しい」』

著者
NHKスペシャル取材班 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784104056088
発売日
2017/10/18
価格
1,430円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

介護者に思いを致す社会に

[レビュアー] 横井秀信(NHKプロデューサー)

 介護という言葉を聞くと、いつも近所の男性を思い浮かべる。挨拶を交わすだけの間柄だが、いつも笑顔をこちらに向けて、「こんにちは」と声をかけてくれる。彼は、少なくとも十年ちかく、認知症の母親の介護を続けている。母親も、かつては笑顔が印象的な人だった。

 夜更けに、男性の大きな声が響いたことがあった。「頼むよ」「お願いだから」と、すがるようにも、いら立っているようでもあった。その声は、SOSの悲鳴だったのかもしれない。しかし、私は知らぬふりをした。

 介護を苦に、連れ合いや親を手にかけてしまう事件が相次いで起きている。高齢社会を反映して、介護される側が一貫して増えていることを考えれば、恐らくこうした事件も比例して増えていることが推測される。日々のニュースに少し目を凝らしただけで、実に多くの事件が全国各地で起こっている。介護の現場で何が起きているのか、何が介護者を追い詰めているのか、きちんと報道すべきではないか。そんな問題意識を持ったのが、一昨年の秋だった。介護に関する取材経験の豊富な記者とディレクターが集まって、「介護殺人」報道プロジェクトが立ち上がった。

 取材者たちはまず、事件がどれくらい起きているのかを探ろうと、全国のNHK放送局のニュース原稿や裁判資料を収集した。その中に、胸を締め付けられるような事件があった。

 九州に住む70代の男性が、42年間連れ添った妻を殺めた事件。寝たきりの妻から懇願されて手にかけ、自らも命を絶とうとしたが、果たせなかった。

 裁判資料に、記された夫婦の最後の会話。

「本当にいいね、後悔しないね、もう後戻りできないよ」

「うん、確実に殺してね」

 執行猶予の付いた有罪判決を受けたこの男性のもとに、取材者たちは何度も通い、仲睦まじい夫婦だからこそ起きてしまった悲しい事件のいきさつを記録した。

 いま一つ衝撃を受けたのは、母親を殺めて服役中の男性の証言を編集室で見た時である。

 男性は、もともと母親の介護をしていた兄に「助けて」と頼まれて、介護を担うことになった。男性はその時、失業中だった。

 我慢強く、しっかり者だった母の姿は一変していた。

「大便を、どうやったらそんなにつくのかっていうぐらい大量につけて、私の方に泣きながら『おいは何か悪いことをしたとですか』と言いながら来たので、母を楽にしてやれるのは俺しかいないと決めて、犯行に至ってしまいました、それがすべてです」

 男性は、罪に慄くように声を張り上げ、泣きじゃくりながら語った。膝に当てられた拳は、ぐっと握りしめられていた。

 なぜ逃げ出そうとしなかったのか――という取材者の問いに、男性は喘ぐようにして答えた。

「家族…だから…です」

 日本の介護保険制度は、自宅でのケアが、大きな柱となっている。これは「介護は家族が担うもの」という、暗黙の社会的合意を背景としたものだろう。だから家族は、肉体的、精神的、経済的に追い詰められても、外部に助けを求めづらい。そして、家族が家族を殺めるという罪を犯してまで、介護を終わらせようとするのだ。

 私もそんな暗黙の合意に縛られていた一人だったのかもしれない。冒頭で触れた、介護を担う近所の男性に、温かい言葉をかけることもしなかった。

 番組の放送後、私は思い切って男性に切り出してみた。

「お母様の具合はどうですか」

 男性は少し戸惑っているようにも見えたが、「あの病気にかかると、ダメですね。ありがとうございます」と答えた。

 男性にとって、どれほどの意味があったのかは分からない。気にかけているという思いだけでも、伝わったらと思う。

 介護殺人を防ぐ手立てを示すのは難しい。それでも、介護者の心のうちに、思いを致す社会であってほしい。そんな思いで番組をつくり、本書をしたためた。

新潮社 波
2017年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク